集約された情報は眺めることでしか価値を得られない

図書館の利用者にとって情報の価値とはどういうことか。本を読むことだ。目的は本の意味内容であり、実際に読まなければ情報としての価値はゼロに留まったままだ。では、図書館における情報の価値とは何か。すべての本を読めるはずはないから、目的が本の意味内容であるとは言えない。読めないから「図書館に情報の価値はない」のか。素朴に考えてみると、図書館には情報が詰まっていて価値がある。本を読まなくとも、図書館に情報としての価値はある。目的である本の意味内容とは異なる、その情報とは、いったい何を指すのか。
「本を読むことができる」という可能性が、図書館における情報の価値なのか。とすれば、利用者のいない図書館には情報としての価値がないことになる。そうでなく、組織された本たちには、情報としての価値がすでに含まれている。組織された本たちというシステムが、図書館のもつ情報である。利用者が一冊の本を読んだり読まなかったりしたところで、そのシステムのもつ価値は変わらない。
思うに、個としての情報がもつ価値と、組織された情報群のもつ価値は、質の異なるものである。情報を収集、組織するための技術が進んでいるのはたしかに喜ばしい。ただし、そこで生まれるのは、組織された情報群としての価値に限るのではないか。個としての情報として捉えることも不可能ではないが、よほどの情熱と余裕がなければ試みるのは難しい。素朴に情報を楽しもうとしたとき、僕たちはおおよそ個としての情報に触れている。このとき組織された情報群はどれほどの価値を認められるだろうか。
組織された情報群のなかから、個としての情報という価値をつむいで提供してくれるのが、司書さんです。そういえばウェブに司書さんはいません*1。そこで僕が司書さんになればよろしいと思うのですけれど、いかがでしょう。
推薦:デジタル猫並の日記帳:図書館情報学“はてな”

*1:あとで考えてみると、いるようにも思えました。いや、いるのではないかな、という疑問が浮かんだとしたら、よろしいことだと思います。それはどういう意味で司書さんなのでしょうか。いろいろにありましょう。