素数を数えるんだ

三者面談した。だめだな、と思った。
そのあとついでに時計を買いにいく。試験のためである。デジタルのでんぱ時計をもっているが、針でカチカチするほうでないといけないらしい。どれにするのか、と母が尋ねる。「安いやつ」と答える。お金を使うのが苦手になったのはいつごろだろう。欲しくもないものを買わなければいけない苦痛。「止まったらかなんから、それなりのやないと」と母は言う。サンキュッパで妥協した。あたまわるそうな響きだよな、サンキュッパ。
母はついでに買い物をしてくるそうだ。「本屋におる」と僕は告げる。時計も食品も本も買えたりするスーパーマーケットである。まさにスーパーである。しかしスーパーでない。ここ、本屋じゃなくなっとる! 中にあるのはDVDや音楽CDばかり。本といえば、店の表に並ぶ雑誌とわずかなジャンプコミックスのみ。本って、そんな程度のものだったんだ……。
母はどこかにいってしまった。仕方なく雑誌を立ち読みする。週刊誌って、なにこれ、こんなくだらないの? でも、くだらないから、だから読まれるものはある。僕だって、くだらないものをたくさん読んでいるから、と解決した。さすがにこのような雑誌を読む気は起きないので、パソコン雑誌のほうに目を向ける。どれもこれも微妙だ。パソコンといえば、僕はウェブへの関心がほとんどだから、あまり雑誌はおもしろくない。まあその点、ネットランナーなんかは良かったな。雑誌が一番おもしろいのって「はじめの一冊目」だよなあ、と振り返る。
ニュートンが目に入る(参考:科学雑誌ニュートン-最新号案内)。おや、これは、くだらなくないぞ、と嬉々とする。ニュートンはきれいな写真がたくさんあるから好きだ。今月号は大きそうなカレンダーが付いていた。広げてみたい。その欲求は、しかしスーパーマーケットで満たすにはあまりに非常識である。むずがゆい気持ちでページをめくっていると、ある記事が気にかかった。量子コンピュータについてである。「からみ合い」や「重ね合わせ」云々である。両方に50%の確率で同時に存在しているとは、なるほど抽象的だ。どなたか(ファインマンさん?)が「量子論についてほんとうに理解している科学者はいない」と言ったのも(軽率な判断だが)うなずける。
量子コンピュータを用いれば、数億年かかる計算が数時間で終わるらしい(うろ覚え)。その結果、いま使われている暗号が意味を成さなくなる。また、桁数の大きい数字の因数分解が短時間で可能になる。など、とのことだ。そうだよなあ、そもそも暗号は解けるために作られるものなあ、とか、あれ、因数分解ってなんで難しいの、とか、浅はかな考えを巡らせた。コンピュータに素数を教えるのって、ああ、なるほど難しいなあ、と考えて解決した。素数を数えて落ち着いた。
日を記すと*1、時間がでたらめになる。おそらく「受験記」を名乗る上でもっとも重要であろう面談については一行で済まし、そのあとのとりとめもない午後に何行も費やす。ここで文章に書く欲求はおおよそ満たされる。あとは考えたことを備忘しておこうと、箇条書きを試みる。

  • 実験するよりも文章を読むほうが楽しいという、少数派であろう僕の趣向。
    • 僕には科学者としての要素が欠けているのではないか、という疑問。
  • 科学が娯楽のための読み物にパッケージングされること。
    • その与え手の立場に魅力を感じるが、いきがいや、なりわいに、足るか。
    • 魅力的だが、科学とは区別したほうがよい、という戒め。

箇条書きを試みると、きのうも感じたのだが、思考がしぼむ! と実感する。文章に書くこと、との、深い隔たりがうかがえるが、かといって悪い意味ではない。なぜなら、「考えたこと」を「箇条書き」で書き記すためには、ふたたび考えなければならないからだ。きのうの日記で「情報源」について箇条書きしたとき、たしかに満足した。考えて、ぴしっ! と言葉にする喜びは、文章を書くこと、の、すばらしさであるなあ。ゆえに、考えが「しぼむ」わけではない。考えること自体が、とても窮屈で、だからこそ格好の良いものなのだ。

*1:素直に日記と言えばいいのにねv(女子高生)