ひとから触発されることは安っぽくないか?

触発されない。これが最大の欠点であると自覚している。また広くみても現代的な若者の特徴であると思う。物語とか、雲の上とか、希少な確率とか、そういうことがわかりすぎている。から、というわけではない。の、だろうか。

これは非常に難しいぞ。どれだけ大人が必死になって考えて、諭そうとしても、そんなことは僕に伝わらない。必死であればあるほど、みにくいひどいつまらない。触発されない。触発されることに抵抗を感じる。触発はすなわち悪である、と考える。触発されることは安っぽい。つくりものの希望に支配されているようだ。どこかに汚らしい陰謀があって、それが僕を触発させるのではないか。たとえば日本ひきこもり協会である。これは負の触発だが、たとえひとを奮闘させるような生の触発であったとしても、陰謀には違いない。やる気、カッコワルイ。ただの中二病で片がつきますか。どうですか、大人のかた。

というか貴様たちは、ただ楽しそうにしていればいいよ。なんでしないの?
もうわたくし、やっと反抗期ですよ。あるいは、病んでる。ヤンデル。なんか格好良い。
すこし関係のない話をしましょう。わたくしの人生における大きなパラドックスです。
虚構に価値を見出しましょう。その背景を、現実への絶望、あるいは心的外傷に対する癒し、などとねつ造してみましょう(というのも、僕には絶望も心的外傷もありませんから。だから僕は、僕を「第二萌え世代」とよんでいますが、まあてきとうです)。となると、非虚構よりも虚構に価値を認めるわけです。
しかし考えてみますに、なぜわたくし、虚構を楽しめるのでしょうか。ある虚構の物語を、わたくしは深く楽しめました。なぜか。問うてみたところ、似たような体験をしたことがあるから、です。非虚構の体験によって、わたくしは虚構を楽しむことができたのです。これはおかしいです。言い換えれば、この虚構の楽しみは、非虚構における楽しみがかたちを変えて現れたものにすぎないのです。それは、現実に見切りをつけて、虚構にこそ価値を見出そうという、大元の背景に矛盾してしまいます。
それほど深刻なことでない、と思われるでしょう。しかしこう問うと、わたくしは呆然とうなだれてしまうのです。すなわち「貴様は現実に十分な価値を見出せるのではないか? 虚構に価値を見出すというのは、偽りではないのか?」と。そしてこう続きます。「ならば、なぜ現実における価値を見据えない?」こうして、わたくしは虚構から非虚構へと排斥されるような疎外感を味わうのです。そんなのおかしいよ! 僕だって、萌えたいんだ!
この矛盾をはらんだひとたちを「第二萌え世代」とよんでいるわけですが、これはむしろ当然なのでしょうか。みなさん萌えというと「現実との対比」「トラウマ」などを引き合いにしますが、それをみるたび、違うな、と感じるのです。そんなのないのです。そういうひとたちは、「生まれたときから萌えがある」時代において増えていくと思います。以上のことを僕は矛盾とよびましたが、これは現実と虚構の二元論においてしか通用しません。実際、現実と虚構ですべてのことを説明するのは不可能です。
いろいろ述べましたが、僕が言いたいのはこのこと。現実に価値を見出せるわたくしが、虚構を楽しんでもいいですか? これは、ちゃんと、萌えですか? 答えは求めません。わたくしは、このどちらにもイエスと答えるつもりしかありません。

すこし前向きなこと書いておきましょう。きみたちは、まあ僕もだけど、日々、体験をしている。当然すぎることだけれど、僕はとても驚く。現実と虚構の板ばさみに涙を流しそうになったとき、それでも、僕は、なんと体験をしているんだ、その証拠なんだ。そう考えるととても驚く。人生がどれだけ価値あるものかを認識する。
虚構って、人生を映し出す鏡じゃないかな。虚構を楽しめるって、つまり体験をしているって、きみ、ものすごいことだよ。宇宙人なんかはこう疑うだろうね。「どうしてうそだとわかっているものがおもしろいのだ」それは、いままでわたくしの人生に起こったことに、うそがないからだ。起こったのだから、うそでない。生きているから、死んでいない、というほどに自明。そして、おもしろいのは、それなんだ。