森博嗣『大学の話をしましょうか』

森博嗣『大学の話をしましょうか』p.138-139

僕の息子は、数年まえに国立大学を受験することになった。僕は、自分の子供に対しては、まったくの放任主義だったので、成績簿を見たこともなく、彼がどこの大学を受けるのかさえ知らなかった。しかし、自分は大学で働いているのだから多少の興味が湧き、あるとき、「理系だよね?」と尋ねてみた。すると、彼は大学のガイドブックを捲りながらこう言った。「うーん、やっぱり工学部か理学部かな」と。そう聞くと、志望学部・学科を知りたくもなる。きいてみると、「まだ決めてないけれど、少なくとも『人間』と『環境』と『情報』が付くところだけは避けたいと思っている」と答えるのだ。理由は、「みんなも話しているけど、なんか胡散臭いしぃ」とのことだった。

そういった名称に変更しなければならなかったのは、学生を見ている振りをしつつ、文部科学省を向いていた明らかな痕跡であるが、若者はおそらく本能的に、その組織がどこを見ているのか、その視線の先を感じ取る、そんな力を持っているようだ。

人間の生活のために社会や地球の「環境」を維持するという観点は、もちろん重要であるし、そのために、「人間」を見つめ直すことも、また「情報」を駆使することも当然である。工学や理学においても、昔から基本中の基本だ。この当然すぎるものが名前になっている曖昧さは、やはり拭えない。