自我に、ひとの気持ちに、言及することの気持ち悪さ

僕はよく(勝手な言い回しをすれば)「主観(こころ、こころ世界)にとって(において)主感(こころ)は深刻であるか」ということを考えるのですが、考えるたびに「こころにとってこころは取るに足らない/こころにとってこころは深刻である」と、別な答えがみちびかれて興味深いです。
余談ですが、ついさきほど「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ版最終話(25、26話。「おめでとう」のほう)を観ました。ここからは「取るに足らない」ほうのインスパイヤを受けました。冷静に話を捉えると、逆かな、とも思うのですが。
この問題が切実になる文脈は、たとえば「なんだ、そんなこと」という発言が切りかかる場面。「なんだとはなんだよ! おれにとっては切実なんだ! おまえは何もわかっちゃいないくせに!」と叫びたい、のですが、「おまえがどれだけ悩もうが関係ない。傍からみて、そんなことはどうでもいいんだよ。じきにわかる」わかるものか。わかるもんかよ。わかんねーよ。でも実際、わかってしまうものかもしれない。では「おれは間違っていたのか?」というと、まさか。「ほらみろ、その程度のことなんだ」うるさいうるさいうるさい。悟った口きいてんじゃねえ。何も感じていないだけじゃないのか。何もかも諦めているだけじゃないのか。

「うんうん、その気持ちよくわかるよ」「きみの気持ちを本当に知ることはできないけれど」などという言葉遣いは(いざ自分で遣うとなると)非常に抵抗がある。このとき、僕にとっての深刻さ、および、彼にとっての深刻さ、というのがまったく不確かであるからだ。それは「たしかに」深刻だ、けれど……、と言ったとき、その言葉が何を意味しているのかさっぱりさっぱりさーっぱりわからない。自我(主観にとっての主感)やひとの気持ち(こころ世界の外にあるこころ)に言及することの気持ち悪さを、僕はここに感じる。

ひとにはいましかない。しかしいずれ、いまは忘却の波にのる。確定済みだ。ひとのすべては忘れられうる。どれが大切ないまであるかなんて、いまにはわからない。僕はしばしばこういった迷想から「こころにとってこころは取るに足らない」という答えをみちびくのですけれど、
んなわけあるか。じゃあ、このつらさはなんだ。息苦しさは。あのひとの、あの顔は。あの、話しぶりは。
こうして、例のごとく振り出しに戻るわけです。
というか、こういう話なんですよね。エヴァ様は自分のこころをどう思っているのか(=どう扱うことができるのか)。また、ネギくんのこころをどう、という。何はともあれ! きをふしは『魔法先生ネギま!』を応援しています。