「ボクは馬鹿です」と宣伝するひとたち

「これはおもしろくない」と感じたところで、「まだ、これをおもしろがることができない」と思い至るひとは、より多くのことを認めうるはずだ。しかしまた、そういうひとにかぎって、「もう、これをおもしろがることはできない」と、かたくなにおもしろがらないひとにもなりうるのだろうなあと思った。頑固親父の、まだ若かりしころ、彼はどんな少年であったろう。
さて、こういう視点に目がつくと、「これをおもしろがれるかもしれない」という、おもしろみに対するおもしろみが見いだせます。これをメタおもしろみと大仰に名づけてみるもおつですけれど、素朴に捉えてみれば、これ、「なんかすごそうだぞ」「なんかわくわくすっぞ」という、そもそもなおもしろみと対してお変わりございませんようにみえる。
「なんだ、つまらないな」という判断はいつにもくだせます。冷めた、と、しばしばそのことを言い表します。そこで「まだ」と切り返せば、いよいよ「メタ」と言い至るかもしれない。「あきらかにつまらない。けれど」という冷めた興奮を、たしかにもちあわせていますから。
やはり浮き漂う閾値による、気まぐれな審判にほかならない。そも/メタとかいう切り替えではなく、程度問題だと思われるのです。
言(こと)に及んで、しかし信じられません(ひとのいうことはしんじられません)。「つまらない。ゆえに、おもしろい」というかたちにショートした回路はジャンクとして混沌に融け込む道理はあろうか(日本語ですか?)。この場合、「おもしろくない」という意味である「つまらない」こと、そのゆえにみちびかれる「おもしろい」という言葉は比して同音同象にして異義(呪文ですね)。これで意味は巡ります。ならばもう、メタと称して次元をたがえてしまうのが道理でしょう。
いったん、メタおもしろみを定めましょう。ここで気づきました。メタおもしろみは、おもしろみの対象を、おなじくその対象に取るのでしょうか。ここに「彼は生まれた。生きた。そして死んだ」というひとつの作品を掲げます(著・きをふし)。ふつう物語を一望に収めることは叶いませんから(「望」だけに「叶」なわけです)、あなたはまず「彼は生まれた」という冒頭に胸躍らされる(とも限らない)わけです。「あきらかにつまらない」です「けれど」、もしかしたら彼はただ生まれたのではないかもしれない、じつは生まれたという意味ではないのかもしれない、生まれたということはたんにそれだけを意味するのではない、などと探りをいれることで、またそんなことをぜんぜんしなくたって(骨折り損です!)、「おもしろがれるかもしれない」と感じるひともいます。
ちがう。
冷めた興奮という言葉は意図から逸れている。
思い出した。「つまらない」という感情でなく、「なんのことだかわからない」という意味の「おもしろくない」という感覚がモチーフなのだ。本当は第一パラグラフで文章が終わっているはずだったのに、やけに話がふくらむなあと思ったら……。