読書観ってレベルじゃない

読書について思うことといえば、自身の読書歴の浅さである。それがコンプレックスであるといえばそれもまあそうかなって感じだけど、いままでの何倍もの読書をこれからやっていけるんだって解釈してwktkすることもある。いま読んでいる(意識に昇っている)本に比べていままでに読んだ本ってのが圧倒的に多くまた密度も濃く感じるのは仕方ない。たかが3.5yくらいの年月ですらそうなのだから、その過去に押しつぶされてしまわないよう解釈に気を配る必要がある。
とかなんとか、某SNSで本のレビューを書きながら思う。読んだ本のレビューを書くことと同じくらい思い出の一冊、そこまでおおげでなくても、ふと思い出した本について書くのはちょっと楽しい。でもそれはある一定の場が必要だ。新しくつくられたシステム。まだ参加してまもないコミュニティ。過去を吸い上げるまっさらスポンジがあって成り立つ記憶の対流。おおげさに言っちゃった。要するに、まだ情報のないメディアは洗練かつ充実した情報を補うことをアフォードして、その刺激を受けて過去の記憶っていうフィルタリング済みの情報を出力したくなるっていう、ニコニコ動画について思ったこと。
でもさいきんのニコニコ動画っていうのはずいぶんとリアルタイムになっている気がする。S波にP波が追いついてしまった、あわあわ、という感じ。はてなブックマークについても思った。現在に追いついてしまうと、目新しさっていう独特のフィルタが取り外される。べつにそれが悪いとかどうこう言うわけではない。そのメディアの形式とは関係ない部分ところで、すなわち時間的な目新しさでそのメディアの機能が左右されるっていうのは、どうなんだろう。儚いというか、時限式の非日常みたいなもので目を向ける重要性もあまり感じられない。
わりと節操なくサイトを続けています。くろぽはまだ生きています、更新休止ではなく、たまたま新しい更新がないだけです。こんなふうに僕と同じことを思っているひとなどいるのでしょうか。僕もいま考えたのに。新しい場、新しい名前っていうのは始めやすい。遺産を食いつぶすだけでもしばらくやっていけるじゃん。
そうなのかな。そういう側面はあれど。書くときにはなかった必然が、分かれて着地したさきでその地にどんどん馴染んでいく。ぽもダもゆもルもブもmixiもそれぞれの孤島。サルベージを試みてもどざえもん。遺産を掘り返すのも大変だ。