パノプティコン

監視するものからすれば、点から宙への視線の放射、多勢に独り。されるものからすれば、視線は無数で、とりかこまれた、点に等しいぽつん。もちろん、その視線っていうのは錯覚で、まったくないこともしばしばで、でもその錯覚がこの図式を支えるわけ。情報の不可逆による関係の錯覚。
そういう話はどうでもよくて、生活と表現について思う。表現というのは、まあ広く、姿、振る舞いを閲覧可能にするという意味で。自室でおこなう日常という名のおこない群が表現でないのは単に閲覧可能でないから。つまり表現であるか否かを定めるのは表現内容ではなく、表現を取り巻く環境や表現に付加する操作による。
付加操作がとても容易で、表現による自己に対するデメリットが小さく、他者に対するメリットが負でないなら、表現に移してしまえばよいのではないかと思う。表現による他者に対するデメリットというのものについて考えるのも重要なにおいを感じるけれど、いわゆる時間の無駄とかいうのを含めてしまうと判定のしようがなくなるなあ。けれども、閲覧可能化、そのものによるデメリットというのは想定しづらい。
おれの日常を表現に移すことが、仮にデメリットと無縁だとして、かつ手間がわずかであれば、積極的な動機づけはないものとしても、気が向いたら実現すればいい。そうするとおれの生活がオンデマンドになるのだなあ。しかし自身は向けられたキューに気づけず、自身とはべつのメディアによって表現が機能する。というと、このたぐいのメディアを用いた表現の試みというのは、要求を意識の陰において了解した閲覧可能化にとどまる。
あまり狭窄した言葉を遣って満足しても仕方がないので、卑近な問題に寄せてみると、表現に対する動機づけを見失って再編成を迫られる価値体系を、どうしよう。……? 何を言っているんだろう。
自身と他者との非ミディアムな関係をについて考えてみると、やはりここでもキューによるオンデマンドな表現が交わされるのだけれど、キューに対して自覚的である点が異なる。そういった付加操作とはべつに、制限の弱い環境であることから漏れ出る閲覧可能性も大きい。垂れ流しのコミュニケーション。だからやっぱり、オンデマンドとはいいがたいのかなあ。