考えることの着地点が定まりつつあるのなら出来事の淡々とした羅列に情緒を解するのもなるほどうなづける

大切なことがあっても、その状況が書くことに隔離されているのであれば、実況や克明な保存は望めない。そして大概にして強くこころに残ること、言葉に残したいことは、書くことと離れた地点で発生し、逸れた進路を向いて継続する。そのおかけである強い感情の一回性が守られるという側面もある。言葉による感情の囲い込みがオーバーフローしてしまうのだ。したがって、臨場感、実況性、といったものによる印象は、ひとに語るに際して大きな障害となる。
では、書かなくてもよいのか。感情を霧散させて、またいつかくるであろう尊い体験のために、こころの受け皿をフォーマットするのも豊かな人生の方法である*1。ここをどう選択するかは個人の価値観や美意識によるので主張を試みるわけではないけれど、やはり僕は言葉に書きたい。残したい、伝えたい、大きくこのふたつの動機を天秤に乗せたとして、どちらに傾くかは自分でも定かではない。強迫、かもしれない。思い出すことの一過性に。思い出すスピードに、引きずられるように。
思い出すスピードで生きるとは、簡単にいえば、そのときに感じたことを大切にするということだ。そのときに感じたことをあとから参照すると精度が落ちる。言い換えれば、感情の一過性を自覚し前提する生き方だ。しかし、これを考えたとき、僕は書ける状況に上乗せした体験しか想定していなかった。具体的には、部屋で本を読んでいるときや、パソコンの前に座ってウェブを眺めているときである。ここに、冒頭に述べたような状況、書くことに乖離された尊い体験というものを考慮すると、途端に心苦しくなる。原理的に残せない状況において、思い出すスピードとは何を意味するのか。
そう考えると、これが本来的な意味での思い出すスピードであることに気づいた。そもそもに、残せる状況というのが特殊な条件下であり、ここにおいて思い出すという言葉は強く圧縮された意味合いをもつ。思い出すことの一過性、すなわち参照不便性はその場で書くことを要求する。しかし、それを思い出すとよぶのは抽象的な言い回しである。第零段階の思い出し。最大精度の書き残し。要するに、体感→想起(一回)→想起(二回)……という順に思い出す精度が落ちていくことを前提に、ときには書くことが不可能であるマイナス一回目の「想起」を全体にまとめあげて考えたのだ。
書けない状況において、第零段階の想起とは、本来的な意味での思い出すスピードとは、つまり一回目の想起にほかならない。ごく一般的な意味での「思い出す」ことである。これが限界の精度。思い出すことには整理や要約が伴う。そのたび、感情からぽろぽろと尾ひれが千切れ落ちていく。その前に。できるだけ姿を保ったままで感情を閉じ込める。
程度の差はあれど、書ける状況における強い思念、書けない状況における強い体感が、精度を保ったまま残せることがわかった。しかし、思い出すことを数えることもまた程度の問題だ。第零段階の想起、二回目の想起、などと明確に定めることはできない。というわけで、以上の文章はごく素朴でひどく陳腐でじつにありきたりな結論しか導けない。つまり、書くことははやいほうがいい。

*1:そう考えると、ある感情の一回性が擬似的なものであるとわかる。ひとは何度でも「はじめてな感じ」を繰り返し体感できる