我思うとき我あり

きょうの授業(デカルトとか)の感想。
「精神が存在する」という言い回しに違和感を覚える。すべてを疑っていても、それを疑っている自分は存在している、ということには納得できる。でも、これは「疑っているとき」という現在性を前提にしている以上、存在という言葉とむすびつけるのは強引な気がする。「自分が疑っているという「現象」は事実だ」ということと、だから「自分の精神は「存在」している」、ということとのあいだに飛躍を感じる。
精神っていうのはあるとかないとかじゃなくて、はたらくかどうかっていう機能なのではないか。と考えると、精神が存在することとは、その精神がはたらきうるという現象可能性そのものとして捉えるしかない。そうすると、自分の精神の存在(=現象)を探ることは、精神の存在(=現象可能性)を前提にしているわけで、探求としてナンセンスだ。
デカルトの発想にはだいたいのところで納得できる。ただ、それを「存在」という言葉に結びつけるときに、まるで「存在」という言葉のニュアンスを貶めているような印象を受ける。うごいたからある、そのときだけある、そのようなあいまいで不安定なあり方を「存在」とよぶことは哲学として似つかわしくない気がする。これが根っこにある違和感です。
余談にしかならいだろうけれど、ちょっとべつの視点から精神と身体の存在について考えてみたい。意思をもった電球がここにあります。彼がすべてを疑っているとき、彼は点灯します。そうでないとき、彼は消灯しています。彼は電球なので身体は確かに存在しています。点灯するときもあれば消灯することもある、現象可能性をもっています。
電球を想定することで、ひとつ新しい視点が生じました。精神に絞って考えるとき、現象可能性とは実体のないものです。しかし消灯している電球は、目に見えるかたちで現象のおこっていない現在を示しています。
このとき、彼に精神は存在しているのか? 自分で言っておいてアレですが、これは問いとしてオカシイです。さんざん「存在」という言葉を疑って解体にかけたわけですから。というわけで、こう答えるしかありません。彼の精神ははたらいていない。しかし、はたらくかもしれないという可能性を否定することはできない。
あー、やべ、何が言いたいんだ。以下、思い浮かんだこと。

  • 電球はなんのメタファ?
    • 自我:精神現象の可視性は自分にのみ成り立つ
      • しかし現象していないことを「認識」することは精神の「現象」なのでは?
      • 「精神がないかもしれない」という発想自体、精神の産物じゃん?
      • そのなかで電球というメタファにこじつけるとしたら、つまり電球とは他者の脳に接続された自我ってことか? うは、いみふ。
    • 他者の精神における実体をもたない(=観測不可な)現象可能性をどう捉えるか