論理・解放・慣用
定量化は自動化と親和する。自動は解放を促す。ひとは解放されるべきである。または、ひとは元気になるべきである。または、ひとは楽しいべきである。または、ひとは賢いべきである。および、ひとはこれを疑わないべきである。
達人は天ぷらの揚がる音の微妙をもってタイミングを極めるのかもしれない。天井を突き破るために五感の総動員を要することはもっともだ。
しかし日常レベルにおいて、そこまでの絶妙は求められない。「中火で三分」という説明に対して、それに歯向かう余地はない。*1
「中火で三分」とはひとつの事実である。この命題は調理が成功することの十分条件である*2。論理的に考えれば、調理を成功させたいなら、「中火で三分」であれば間違いない。かつ、その180秒のあいだに昼寝をしようが鼻をほじろうが自由である。
ところで、三分が具体的な数値であることは議論するまでもない。だが、「中火」とは定量化された値であるといえるのだろうか? IH調理器具に関していえば、かなりの精度でデジタル的に出力を調整できる。今後は、たとえば「180℃で五分」というような記述が基準になるかもしれない*3。
そうでない場合、火を噴くコンロ*4にとって、「中火」という概念は何を意味するのか。数値を完璧な精度で記述することができない現実を考えれば、程度の差こそあれ「180℃」も「中火」も概数に過ぎない。日常生活レベルにおける言語の慣用を考慮すれば、「中火」を値とよぶことは十分に妥当であろう。
慣用によるゆらぎは受け入れなければならない。相応のリスクが日常レベルの論理的思考にはともなう。だからといって、ポテトはきっとおいしく揚がる。