ネガティブ読書観

読むことや書くことは指と眼球くらいしか動かさないので、やる気とか元気を出すためのきっかけとしてはあまり優れていない。読み書きによって興奮や感心や爽快を得ることもできるが、それは「楽しいから続けることができる」という「続行」の根拠にはなっても、「楽しいはずだからするのだ」という「実行」の根拠としては弱い。なぜなら、実際に楽しいわけではないのだから。楽しみのイメージ、つまり「期待」はできる。しかし「ちょっとうつだなあ」というたどたどしい感情ごときで「期待」はたやすく去ってしまう。
したがって、「実行」の根拠という問題は、「期待」を感じない状況を前提に成立する。結果として、その根拠にはネガティブな観点が求められる。
ネガティブの粋極まったものが「何もしたくない」「考えたくない」「逃げたい」という感情だ。しかしその煩悶そのものが大きな悩みであるというパラドクスをはらんでいる。よって現実的および実質的に考えて、「何もしない」ことは「何か」をごく浅い意識において「する」ことで達成(妥協)される。そのひとつの手段が読書である。
ところで、このような無能感をもうすこしみつめてみると、その背景には自尊と自信を読み取ることもできる。すこし浮上しました。何かをすることで求められる(または自身に求めてしまう)成果に圧され、「どうせ」とつぶやくことによってさきの感情がみちびかれる。もっとも、悩みに沈みきったとき、そのわだちは雨に流されたあとだが。
僕は考えることが遅いのだという劣等感がある。現象としては、読むことや書くことが遅いという側面にみてとれる。しかし感情的には、ただ「おれは遅い」のだとしか思えない。それは技術的に矯正できる範疇かもしれない。しかし信じがたい。さしあたっての防衛として、量を志向することになる。
本が最大の情報量をもつ媒体であることには異論が多かろう。ふだんウェブに親しんでいるみなさんにとってはなおさらだと思う。しかし僕は散漫で怠惰だから、本みたいにカラダをもった媒体のほうが集中しやすい。
そして「一冊」という単位がある。世間的にみて、「一冊」というカタマリはデカい。ふつう、何かわからない言葉があったとして、それに関する本を一冊まるごと読むひとは珍しい。そういうことができたら優越感ゲームに勝利できる。そんなバカな話はない(笑) しかしそれほど冗談には思っていないのが恐ろしい。(何を言っているのだろう)