無題

オカシナ思考っていっぱいあるよ。
楽しみな授業がひとつもない。楽しみな授業があるべきなのか。オッサンがしゃべっているのを聞いてどうするつもりだ。もちろん、そのオッサンが好きだというならその限りではないが。
うまく書けないことが恐くて書けない。書くことによってわたしが浸食される、汚濁が逆流する嫌悪、消極。書くことはそもそもに無粋だ。目にみえること、消さない限り消えないこと。考えたから書く。書いてから考える。
だからこんな記述はうえのふたつのパラグラフと大した格差はない。じょgふぁえjrひごあじぇおrぎはおgsばるさみこすーjふぁおしjう゛ぉえじょげらいごどんだけーのあふぃjがおいrjごあつかさもえーほふぁえい。jふぁおいwじぇ。
さすがにこれは脳みそ蛾ゆるみすぎナノで、もうすこしがんばりましょう。
絵にすること、絵と絵で動きを仮想すること、その光景、変化、さま、をみて、感得をおこなう、とき、その、それは、言葉による説明できないものだから、といって、言葉ではない何かであると迷信してみたり、しても、そもそもに 言葉から受けるものの多くもまた とくにそれに価値を感じるときであればなおさらに それは言葉ではないものであること また然り つまり 言語か可能であるかないかということは、じつに限定的局所的狭窄的な評価に過ぎないということである。また逆に、言葉による何かですら、そういった自身を昇華したところでひとに届くことも期待にやぶさかではない。ただばくぜんとそういったものを目指す限りで、表現の種類に劣等はない。ただあるのはパターンだけで、パターンそのものに美学や権力はともないえない。
ぼん、ぼん、ぼんごれびあんこ☆ ぼっぼ・ぼ・ぼ、ぼんごれびあんこ☆ さて虚構というものの魅力がどこにあるかということなのだが、倒錯、欺瞞といった感情を客観的に感じるとういう、矛盾した心理体験にそのひとつをみることができる。倒錯は自然発生的、自己欺瞞は機能必然的ではあるが、外部との切り離しという準備をともなう。内部においていくつかのロジックを変革または削除することで系が狂い、それ自体の変革がより上層の系からはじき出される。しかし内部において、ロジックにもとづいて正しく系は動作している。ただあるのは変化と必然、オカシサはどこにもみいだせない。欺瞞もまたロジックに対する干渉である。ログはプロテクトされリカバリ不可。ただ内部における整合性だけが確保されつづける。わたしは狂わない。
劇性というのがものごとのおもしろさにおいて重要だ。劇は役割をともなう。機能と言い換え、べつの比喩──システムにつなぎ替えるのもべつのおもむきがある。役割は自意識を侵す。だからキャラが立つ。事実もまた劇。
キャラは自身を超越できない。わたしが世界よりも大きな系を前提できないように、いったいどのキャラが世界のなかに世界があることに気づくだろうか*1。自分は常に自分に騙されつづける。系を登りつめることは試みられる。そのときに言葉を遣う。躍動感や幸福感は言葉が言葉を踏みつけた感触を過ぎるものではない。
自己欺瞞の自意識はわたしとなんら変わりない。言葉による突破は、道具の定まりつくされた抽象化が極まるにつれ、対数関数的にその望みがついえいく。絶望さえをも許さず、緩やかに忘却し、歴史の長さよりも長くその歴史を残しつづける*2
わたしもまた世界以下にある超越不可な自己欺瞞によって保障された自意識である。キャラである。
役割が無限であるように、キャラもまた無限である。あるキャラにおいて役割が無限であるように、あるキャラとは無限である。しかし同時に発症はしない。
創作するということ、創作によってひとに認められようとすることは、場合に応じてさまざまな幻想と現実をひとに与える。すばらしい作品に向かう自分に向かうことで、わたしの不可能性が自覚される。
引用、換言するのは簡単だ。機能もともなうはず。言いたいことがわかるってどういうことだろう。
他者に対する賞賛は自尊に癒着する。ああ! なんてすばらしいんだ! どうか、あなた、これをみてください! 感動してください! さあ、いっしょに感動しようではありませんか! そして、この感動によって輝いているわたしに、あらためて感動しなさい! わたしはわたしの知るすべてを知りたい。わたしの知るすべてはすばらしすぎる。このすべてがわたしなのだ。わたしはすばらしい。あなたはわたしを知りなさい。わたしという感動が、躍動が、衝動が、わたしに繰り返される鼓動が、わたしを巡りつづける呼吸が、溶け広がる、響き渡る。わたしに関するすべてはわたしである。わたしにとって、わたしとはわたしに関するすべてであるからだ。わたしの一挙手一投足をわたしは知っている。わたしを知ってもらうということは……。
わたしはあなたを呑む。その逆は想定されない。なぜなら、わたしとは固有であるからだ。ゆえに、矛盾に関しては、その可能性すら発生しえない。またはこういえる。わたし以外に、わたしは存在しない。
ひとは何を求めて生きているのだろう。もちろん、楽しみとか、しあわせとか、そういうものであることは疑いようがない。しかし、組織の不安定な安定、つまり不条理に対する許容・無知・逃避が埋め尽くす現代社会において、それはごく限られた場合における答えにすぎない。たいていにおいて、優れた物語は現実と矛盾する。現実のなかで優れた物語を求めて、安らぎを得るのは、マゾい。よろこぶために苦しむという構図は、苦しむためによろこぶという逆転と同一であり、ただ解釈をたがえたものに過ぎないからだ。
現実がこうだからこそ、非現実的な感情移入を望むのだ、というのはもっともだ。合理性のないあり方、やり方で、ものごとが安定するというところに、歴史的、経験的な実証が認められる以上、根本的な解決を提案するのも無責任である。頼れるのはわたしだけである。

*1:コジコジちびまる子ちゃんが登場したことがあったな

*2:これは間違いかもしれない。というのも、歴史の長さは言葉による発明かもしれないからだ。