スペシャリスト

スゴイと思っている、そのひとが、ほかのひとをスゴイと思っているのを知ると、気分がいい。安心と躍起のどちらかは場合によるし、その片方が失礼なことも承知だが、それでも。
そういう場合、たいていは当人とべつなスゴイが評価されてのこと。自分のもっていない、ひとのもっているものを称える。なぜか。スゴイと思えるほどのひとにとって、彼の貫く道は自覚的であり、その先も高い精度で見通しているからだろう。この調子で、あるいはさらに気合をいれて突き進めば、という仮定のもとで、彼は自分の限界(たいていそれは僕にとって「限界」とはとてもよべない域に達しているだろう)を本能的にも理知的にも知っている。
常識的に考えて、彼はそれでも評価される。だってスゴイんだもの。逆に、ほかのスゴイばかりに目移りするさまはスゴイくない。スゴイ誉めはあくまでスパイスなのだ。スゴイひとが使って、やっと引き立つ。
何ができるか。どこまでいけるか。スゴイはこれらのシンプルな問いから見出せるはず。相互回帰的な問いである。仮定と信仰(こういう言葉がいやならガムシャラと言い換えてもいい)のバランスによってスゴイ。
どこかしらで信じることが求められる。高も知れないうちは信じつづけるしかない。しかしそれでも見切るべきなのだと本能が察したのなら、それもまた限界の表れと知るべし。ただ、そこまで理屈をこねるのも興ざめであるのが実際。