山形浩生『新教養主義宣言』

プロローグとその次の「情報処理で世界は変わるか?」が抜群におもしろいです。正直、この二つさえ読めればこの本は十分だと思いました。あとはだいたいhttp://cruel.org/で読めます。

新教養主義宣言 (河出文庫)

新教養主義宣言 (河出文庫)

この本を読むといいひと

  • 教養・価値・知性ついて考えたいひと、わからないことに不安を感じるひと
    • 山形さんは教養とは価値判断能力であるとして、みんなにそいつを教えてやろうというスタンスでこの本を編まれています。知ったかぶりをしているひとが不安そうな顔をしている、という山形さんの指摘に、ドキッとするひとほどこの本は刺激的だと思います。

個々の文章については読むひとの興味次第でしょうが、個人的にはスーパー・アクロバチック・不景気脱出策(Internet Archive)(hotWIRED Column)と『アイアンマウンテン報告』訳者解説CUT 連載書評)がとくにおもしろかったです。

きもちよく行動するために、わからないという不安を考える

この本を読んだからといって、わからないことの不安さが拭えた気はしません。しかしその正体をつかむヒントは得られました。

反民主主義はおかしく、そして居心地悪い。

そもそもぼくは権利という考え方自体が変だと思っている。人は、権利があるから何かするわけじゃない。権利があったって、それができるわけじゃない。そうする物理的・財政的・その他的な能力があって、はじめて権利は意味を持つ。だったら、あるのは権利じゃない。人間が実際に持っているのは、能力と必要性だけなのだ。

やって意味のないことを権利だといって乱用したってしょうがない。できもしないことを権利だからと文句をいってもしょうがない。やるべきことを権利がないからと言い訳してもしょうがない。行動したいときには、必要性を自分で考えて、主張しなければならない。「権利」によってその姿勢が失われることの不健全さを山形さんは指摘しています。
能力と必要性によって行動を決めるのはまさに価値判断のあり方だと思います。わからないことが不安なのは、自分で自身の生き方を決めることができないから、ひとにその生き方を認めてもらえないからでしょう。でもだからこそ、その不安をひとには埋めらうことはできません。

科学と文明と好奇心

ガキの頃から「なぜ時計は動くのかな」と思ってつい時計を分解しちゃったり、そこからいろんな仮説を自分でたてたり、あるいは勉強してみたりして、じゃあここに油さすと、ああやっぱり予想通り、ギヤがスムーズに動くぜ、やった! というレベルの、「なぜ?→仮説→検証→うれしい」という一連の「科学する心」みたいなのがないと、知識だけ教えてもダメなんじゃないか。

ただ、そういう実用的なメリットというのは、あくまでもともとの好奇心や興味の副作用でしかない。メリットがあるから好奇心を持ちましょう、といってガキを仕込んでも、育つわけないでしょ?

メリットは行動を起こす根っこの理由ではない。でも、ひとに認めてもらうにはメリットを説明しなければならない。これは研究者ならどなたもが抱えている葛藤でしょう。その根っこっていうのを完璧に説明してくれるひともきっといません。
価値判断という言い方をしても、そういう難しさはあるように思えます。価値を判断するためには基準が必要で、教養を磨くとはその基準を読書などでインポートすることである、なんていえるかもしれませんが、きっとそれだけではありません。その部分っていうのはきっと体験して初めてわかるものです。
わからないことの不安さっていうのは、決められないこと、説明できないことに加えて、その説明という行為に、感情を横に置いて理屈をかぶせなければならない葛藤を含んでいるのかもしれません。逆に根っこの感情さえもっていれば不安でないということもあるかもしれせん。でも、いまの世の中でその姿勢を貫くのはけっこう難しい気がします。
教養を育むには。一つは、この本が示しているように、いろんな良書に触れることでしょう。また、感情に突き動かされるだけでなくその体験に自覚的になることが、わからないという不安に立ち向かう姿勢だと思います。