意欲は保存できないし説得のデコードは難しいよね

なぜ授業には出席することはよいとされるのか。なぜ日記を書く(記録する)ことはよいとされるのか。こういったプラクティスの意義は実践によって確かめることができるはずである。よってその意義を説得によってではなく実践を強いることで理解させることがある。みんながよいプラクティスを実践すれば、みんながその意義をわかる。そのとき、いちいちプラクティスの意義を説明する必要はない。
そんなアタリマエナ・ヨイ・プラクティスは日常にありふれている。その意義をいちいち考えることは、おろかとまではいわれないにしても、もしも実践が欠けていれば、あまりよい目では見られない。なぜそんなことを考えるのか。なぜそんなことを考えるのは病的なのか。
よいインプットを得ているときは愉快である。理解と記憶には限界がある。コンテンツが移り変わるたびに理解は限られるし、時間とともに記憶は乱れる。まさにインプットを続けている場面は、そのような限界を反省するひまがない。これを僕は臨場感というし、僕でなくてもおっしゃてかまわない。つまり、わかろうとしているときに、わからないということはありえない。臨場感はひとにコンテンツの価値を認めさせる。このことは理解に対する意欲と記録の不可欠性に対する説得を引き起こす。この前提が日記を書くことに対する億劫さを成り立たせる。
大切なことは残るあるいは繰り返される(これらは現実的な面もあれば宗教的な面もあると思う)という思想によって記録を免れることが許容されることがある。文献を参照して考えそして書くことの煩わしさを思えば、記憶の片隅に頼ることの快適さには納得できる。その有効性は、検証不可能だ。その価値の限界は(宗教的な面を除けば)ひとの認知能力と直結する。つまり自信によって信用される。
記憶はよいように乱れることもある。いわゆる記憶が整理されるというやつだ。臨場感がもはや失われたこのとき、記録に対する意欲は沈み込む。理解と記憶の限界は、理解と記憶への信頼へと錯覚させる。臨場感こそが錯覚であったと思い込む。

認知能力は無情である。整理された記憶さえもはや失われる。臨場感も整理も錯覚だったのだ。いや、錯覚にしたのだ。はじめて後悔し、記録に対する意欲が遅れてやってくる。