どうでもええ

問題の分析とか問題解決の計画づくりと違って、問題発見のモチベーションとか問題を価値を重みづけするための、問題意識というものは、才能というかセンスというか、あるいは趣味、つまりはテクニックに落とせないものだと思っている一方、問題意識をもてないこと、どうでもいい、と感じることも、ひとに固有の感覚なのだろうと、僕は、○○○○○○問題に関心をもてないので思った。どうでもいい、問題ではない、関係ない、いいや、もし自分が○○○○○○○たら、という想像はできるけれど、なぜかそれが問題と感じない。なぜなら、ということを考えると、それは当然問題と理解できるから、考えても、どうでもいい理由というのは出てこない。あえて挙げるとすれば、○○を根拠に事実を判断することの稚拙さを受け入れたくない、という理想から目を背けられないという自己分析ができる。
じゃあどこまでどうでもいいと感じるかというと、それはめしを食えないともちろんいけないけれど、かといって○○○○○○○○○○という問題もどうでもいいと思うと思った。センスとしてはどうでもいい。でもさすがにひととして問題だと、考えるとそう至る。じゃあそれは理性かというと、それほど優先度というか直感度が高くない、しかし感情だきっと。
○○○○○○○○○○○○○○○。昔からそうだったかはわからないけれど、自分はそういう人間ではないと思っていたと思う。でも気分にも何層もあってどこまでが無意識とかって区別できるかは知らないけれどとにかく気分は塗り固められたもので表面というか一番奥だけ見ていても、あるいは見ないですらいると判断が鈍る。
なぜ当たり前によいとされることがよいことであるかを考えることは少なくとも僕にとって大切なことであると考えるように、どうでもいいと思うことがなぜどうでもよいのかを考えること大切だ。それは怠けないためにとかではなくて、それはそれは人間がそもそも生産性を高めて生きるものではないと思うし、また目標的に仮定することもどうでもいいし、ただ気分を理解することがおもしろいからだ。これを中途半端にやめるのは問題であると感じるのね。
説明ではなくて、モニタリング。意味を理解できないと文句をいわれてもどうでもええ。でもモニタリングできないことは問題だ、自分にとって。
「もしこのとき」とか「もし自分が」とかいうときの、どうでもいいという気分に則ったときの気分を、書くなら、彼はそんなことをしない、それは推定ではなくて、した彼を認識したくないということだし、これは気分を少し掘り起こせば簡単に否定できるけれど、そもそも○○を行為の根拠にすることがありえないと感じる。仮に被害、つまりは時間とか名誉が失われるとしても、これも掘り起こせばりありてぃが出るけれども、気分でいえば、不当な理由から被った問題に対して、強い問題意識はもてない。現実では、そのことを説明できないと現実は変わらない。そのときの現実は、違った気分があるのだろうと気づくのは、簡単だ。本当に、問題意識はころころと変わるのだろうか、たった現実が変われば、問題意識は変わるために、気分は信用ならないのか。さて、それは、どうでもよいのか。