そんなこと考えたくない僕が「長所と短所」を生き生きと考えるモデル

一般にわるいとされる性質、が、よいかわるいかというのは、現実的で個別的な文脈においてやっと決まることであって、「人見知りだからわるい」とか「声が大きいからよい」みたいに文脈独立で長所や短所なんて表現できません。一般に、とか、割合として、という断りをいれない限りは。僕はつねづね、就活的典型的質問である「自分の長所と短所」という性質を考えるなんて耐えられない、と感じていたのですが、文脈独立という暗黙的な断りをはね除けて考えるなら、つまり文脈を想像しながら自分の(文脈依存の)長所と(文脈依存の)短所を考えるなら、案外に興味深く楽しそうだと気づきました。
つまり、僕にはいくつかの性質があり、その性質がそのときどきの文脈に応じて長所としてはたまた短所としてはたらくのだ。
現実がどうかはわからないけれど、「長所と短所」が聞かれるシチュエーションはいろいろと想像できる。そのシチュエーションに対策を打つべきという結論も簡単に得られる。
しかし、いやなのだ。

短所を考えると元気がなくなるので考えたくない

短所を考えるのはつらい。自分の無能を確認するからだ。職能的な無能だけえなく人間的な欠損を認識することもである。べつに職能と人間的魅力を明確に切り分けられるわけではない。とにかく欠けている、劣っている、そういうことをわざわざ考えるなんておかしい。いやなことからは目を背けて生きるべきだ。ひとのいやがる領域には触れずに生きるべきだ。そもそもに僕に短所なんて多すぎていちいち数えていられないし、そんなことを数えるなんて耐えられるはずがない。短所なんて気にせずにただ世の中が自分にとって都合よく成り立つべきであり僕は何も努力せずに済むべきだ。そうなっていない世の中はおかしいし、他人はもっと僕のために努力すべきだ。
これが「元気がなくなる」の具体的な心境である。「すねている」とか何かを「こじらせている」という状態だ。僕は精神的に幼いので簡単にすねたり問題を精神的にこじらせたりする。そうすると問題の解決は困難になる。そこで本当にこの問題を解決したい、しようというのなら、発想の転換を加えないといけない。
このような言葉遊びが可能である。上記における言葉「短所」は概念「性質」であり、ある現実的だがしかし想像の産物である仮の文脈、あるいは単に記憶が強いという程度の現実の文脈サンプルという価値判断関数に通したところ出力された「短所」であって、その本質は単なる「性質」であるという理解だ。
その理解において「短所が多い」というのは確率的な意味をもつ。簡単に想起できる僕のいくつかの性質において、簡単に想像できる一般的文脈、または想起できる文脈サンプルにおいて、短所とはたらくことが確率的に大きいということだ。つまり「僕に短所が多い」のではなく、「僕の性質を短所としてはたらかせる文脈が多い」という認識に変化する。そう、「文脈が悪い」のだ。
これは「長所」についても同様であって、ある性質が確率的あるいは一般的な文脈においてどちらにはたらくかが重要なのであって、自分のある性質を長所としてスタティックに理解することは僕のメンタルヘルス上、脆い、モデルである。
よし、問題の焦点が「僕」から「文脈」、恨みを込めていうならば「現実」へと移った。ここで僕は現実に責任転嫁してメンタルヘルスの保護を試みてもよいし、冷静にその文脈を分析して現実を変化させる挑戦を計画してもよい。その性質が長所としてはたらく文脈を設計して実装するんだ。文脈への理解を言語化すること自体や、その理解をひとに理解させること自体によってもその文脈を変化させるはありうる。僕は「僕」に悩んでいるのではないのだから、問題の深刻さに気づいても平静を保っていられる。

短所を克服するのは難しくつらいのでやりたくない

しかし、なんていったって、現実はそう簡単に変わらない。確率的短所または一般的短所である僕の性質が長所となる文脈を設計するのが困難な場合もある。そういう確率的短所または一般的短所は、一般的に克服することが美徳とされる。これはなんていうか職能の問題というよりは、美的感覚の問題として捉えられていると思う。
システムとかコミュニケーションスタイルによって補正が効く個人の能力の欠如とか短所っていうものがたぶんあって、そういうものの劣等感は無用だと思うのですよね。改善のためにシステムやスタイルに自覚的になっていれば。この「システムとかコミュニケーションスタイル」は文脈の構成要素だ。人間の性質を変えるのではなく、人間の性質の価値を決める文脈を変えるほうが、僕は生き生きとする。
ところで、また長所を考える。短所と同じモデルで考えるなら、長所、正確には確率的長所または一般的長所というのは、多くの文脈において長所としてはたらく僕の性質のことだ。性質というのは僕のスタティックな属性だ。突然だが僕の感覚に基づいて不細工な定義をしよう。
長所とは、短所を長所へと変換する原理となる性質である。
いままで「文脈」によって「僕」のもつ「性質」が「長所」または「短所」としてはたらくというモデルを考えていた。残念ながらこれをもっとわかりにくくする。「僕」のもつ「性質」は「僕」の「行動」を決定づける原理であり、ある「文脈」における「行動」によって唯一の「結果」が導かれ、「文脈」がその「結果」を「良い」か「悪い」か判断する、というモデルを考える。結果が「良い」とき、「結果」からバックトレースして、その「行動」の原理として貢献の大きい「性質」を「文脈」が「長所」と評価する。結果が「悪い」ときは「短所」と評価する。
ここで大胆なルールを追加する。「性質」は二つの影響力をもつ。「性質」はほかの「性質」を変化させる。「性質」は「文脈」を変化させる「行動」の原理になる。「性質」による「性質」の変化は「行動」の変化である。「文脈」が一定であるとき、その変化した「行動」の、その「結果」が「良い」ものになったとき、その影響者である「性質」は「長所」である。また「性質」にみちびかれた「行動」によって変化した「文脈」が「結果」を「良い」と判断したなら、その「性質」もまた「長所」である。
重要なのは「性質」が「文脈」を変化させることだ。いままで長所や短所を確率的または一般的に考えたが、これは現実的な文脈の統計によってみちびかれる。それとはべつに、「性質」が「文脈」を変化させる影響力という観点から、その性質が長所であるかどうかを判断することもできる。大小はともかくとして、そのような影響力をもつ「性質」を僕は武器として誇りに思う。
そんな武器があれば、短所の克服という難題にも武者震いできる。