愚痴、問題と文脈、組織とコミュニティ

何かしらの真剣さ、深刻さがないと、ひととのコミュニケーションの欲求は生まれない気がする。コミュニケーションの一種である愚痴というものがよく理解できなかったのだけれど、さいきんわかってきたかもしれない。
愚痴という字はウッとするので「ぐち」と書きます。
ぐちとは何か。問題への対処の一種だと思う。
ある活動から生じた問題(不安とか不満)に、その活動の場では対処できないとする。しかし、その問題に対処したいというきもちはある。だから、べつの活動の場でその問題に対処しようとする。しかし、一度でも場を変えた問題は、その場においては本質的に無関係な問題である。なぜなら、問題は文脈によって明確になるからだ。活動の場を変えて問題に対処することは難しい。また社会的に重要な場において無関係な問題に取り組むことには道徳的なためらいを感じる。
以上のことから、ある活動から生じた問題に、べつ活動へと場を変えて対処しようとするとき、その場は社会的に重要度の低いものしか選べず、しかも問題の本質を扱えない。このときにできる問題への対処が、せいぜい「ぐち」になってしまうのだ。言い換えるなら、ぐちとは「文脈のズレた問題解決」のうち、もっともありがちな形態であり結果であると思う。
ぐちによって本質的な問題解決を図ることも可能だとは思う。うまく問題を抽象化することができれば。
ぐちをストレス解消の手段と割り切るならそれもよい。その場合、おそらく問題を思いっきり具体的に語るのが効果的なのだろう、想像するに。
仮にぐちを悪として根本的に解決したいなら、ある活動から生じた不安は、その活動の一環として対処すべきだと思う。それができるような活動の場へと変化させることが根本的な解決である。不安をアピールしてみたりコンプレックスをアピールしてみたりできて、そのうえで問題に向き合える活動の場にするのだ。
僕は不安やコンプレックスをアピールすることにためらいを感じる。しかし、僕が生き生きと問題に向き合うために有効な手段であるとも感じる。仮にいきなりネガティブなことを言い出したら不審がられる活動の場なんて、世の中にいくらでもあふれていると思う。できれば、一人一人に尋ねて回りたい。こういう場が、こういう活動が、本当にきもちよいのですか。そこで僕の望む答えが返ってくる割合なんて見当がつかないし、こわくて実験もできない。
「問題」というならまだしも「不安」や「不満」という言葉には個人的で感情的なニュアンスを読み取れる。実際にそういうものだ。だから、社会的な活動、社会的な場で、みんなに差し出すことをためらう。たとえば「仕事」として、「組織」において。「組織」を「仲間」とか「チーム」とか「コミュニティ」と言い換えると、「不安」や「不満」を扱う想像はやりやすくなる。ある場が、いくつかの意義を同時に満たせるなら、僕の望む場は成り立つ。
べつに、ぐちを根絶すべきとは思わない。しかし、問題というものは活動や場をよくしていく材料にもなる。せっかくの問題をみんなが知らないうちにだれかが外に捨ててしまうのはきもちのよいものか。いや、捨てるのは問題への対処であって、問題は残りっぱなし、増えっぱなしだ。
ところで、僕はぐちをいいたくない(ぐちをいう自分を想像するのはきもちわるい)し、だれかがどこかで何かの悪口をいっているのを想像するはいやだ。でも不思議なことに、だれかのぐちを聞くことはかまわない。だから、世の中からぐちがなくならないのは当たり前だと思う。自分の手に負える範囲で、対症療法と根本的な解決とのバランスをとりたい。