書くというくさび

ふとした疑問というものが出てくる。その疑問というのは論理的にうまく構成されていなくて、言葉を質せば溶けて消えてしまうような疑問だが、発想の種という観点からは捨てられない。
「なぜ制約によって質が上がるのか」という種は、制約は観点を内包するからだという発想に芽吹いた。この発想には何百時間ものすき間があった。
「『○○』を読んでいるのだが、おもしろい」と発言することで、『○○』に対する興味が萎えてしまうという問題を言葉にした。まもなく、その原因は、意味や評価が端的な言葉によって自分のなかで固定されてしまって、意味の揺らぎや新しいつながりが途絶えてしまうことだと気づいた。この発想には何十秒ほどのすき間しかなかった。この問題提起は「いや、そんなものはない」という反語のような表現とすら思っていた。
こんな気づきから、そもそも前提を信じられない問いや、整っていなくてあいまいな問いにも意味があるのではないかと期待してしまう。解釈を広げれば、ある考えの価値は、その考えが出た瞬間に決めることができない。価値がないと自覚した考えも、アクセス可能にしておく(覚えておく、書いておく、公開しておく)ことで、価値が生えてくることがある。
書くことは意味の広がりをくぎづけにするくさびのようなものだという想像をもって僕はこの日記をはじめた。しかし、書くことは発想の庭であるという焦点も見つかった。
ここで「ふとした疑問」が浮かんでくる。すなわち「書くことによって発想が生えることもあれば枯れることもある」という疑問である。これは不確かな問いである。疑わしい前提がある。「書くことと発想することにはなんらかの相関があり、その相関は正か負どちらか一方である」という前提だ。「いや、そんなものはない」と考えることは容易だ。
正直なところ、これは「ふとした疑問」ではなかった。僕は答えを先に思い浮かべた(そのとき、それはまだ答えではない)。とはいえその答えも、いってみれば疑問を含んだ答え、すなわち仮説といえる。シンプルで疑わしい仮説である。問いを書くことは発想を生やし、答えを書くことはくさびになるのではないか。この答えはくさびになる。僕はあとづけで「ふとした疑問」をつくった。これはくさびの生け贄なのかもしれない。



更新が数日ほど空いて、さいきんにしては更新しなかったなあという感じがします。毎日書かなければならないというさしせまり感はないのでとくになんともないのですが、書くことはないよりはあったほうがよいなあと、書くことが出てきてややうれしいです。
本を一冊分めくれば、更新を一回することくらいはできそうなものですが、読書系サイトを使い始めて、短い読書メモをそちらに書くようにしています。この短いメモである程度満足してしまって、いくつかの段落をつくって更新するほどのものでもないなあと思ってしまいます。その分、いくつかの本をつなげて書こうという意欲も出てきますが、それはネットワーク状の突き合わせを構成する難しさもあり、日記という語感にはなかなかそぐいません。
短く書くということはそれなりに満足感があり手頃だけれど、その満足が冗長な書き味と反比例してもの足りないこともあります。すなわち「とめること」や「するどさ」みたいな方向性を感じて、あたまにくさびのようなかたちがつくられました。ところがこれを日記にしてみると、短い言葉が発想につながる経験とぶつかって、なのに即座にくさびが打たれてしまいました。
書きたいというきもちがあって、書くことによって書けなくなってしまうという悲観があって、書き方を工夫することでどんどん書けるという希望があって、けれどくさびにならない文章は「ちゃんと」していないという葛藤があって、どうすれば、と問うて、しかしてきとうなくさびが打たれるのも怖いので、てきとうに書き終わる、というのも芸がないですね。

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ポイ捨て禁止? - 反言子
Twitter / kiwofusi: 「『○○』を読んでいるがおもしろい」みたいなツイートをすると ...
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

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