アイドルに憧れる

声優のラジオとかよくみてて。ふと。ひとにゆめを与える声優を好きになる自分がゆめをもっていないのはウソだよなあ、と思ったことがある。注釈1:いまはそんなに気張ったことは思わない。注釈2:ここでの声優という言葉はほぼアイドルやタレントに置き換えることができる。注釈3:ウソというのは、論理的な一貫性とはたぶんいえない、美的な一貫性みたいなものを感じられない、ということ。
アイドルは憧れられる。憧れという言葉をもこっとしたままに捉えよう。尊敬という言葉にも同じ感触がある。ひとつはロールモデル、劇的な。もうひとつは雲の上。すごい、とか。もっと砕くなら、めっちゃ好きということだ。めっちゃ好きなんだけれど。自分の人生には関係ないから。関わり合いたくないから。その他大勢のわれわれ。そういう転覆は無理な重ね合わせの反動であって。それを避ける運用はありだと思う。

ところでAKB0048について考えることは何かを考える。AKB0048の何が好きかというと、二つの視座がある。ひとつはファンの視座。単純に、作品がおもしろい、という説明にもならない理由だ。もうひとつは、アイドルの視座。自分の人生には関係ないけれど、フィクションなのでためらわずに立てる仮想の視座だ。ファンの視座は物語として、アイドルの視座は小説としてのおもしろさ。ではアイドルの視座で何を問うかというと、僕の想像力はほとんどファンの視野にとどまるのだから、ファンの視座から伸びていくところのアイドルの視座について。はっきりと述べるなら、ファンの僕はアイドルをみて楽しいのだけれど、アイドルはただつらいだけである、としたら、なんとがまんならない事態なのだろう、というリスクを思索的に否定できるか、という問いである。反対から言えば、楽しい仕事と楽しい消費が両立する市場を思いえがきたい。ある成功世界はこうだ:アイドルは再帰憧れによって楽しい。ああだ:被移転憧れによる移転憧れによって楽しい(美森曰く「ファンのファン」)。そうだ:超越的に楽しい、というかそういう次元ではない(センターノヴァ世界的センターノヴァ性)。また問いが出てくる。センターノヴァとは何か、だ。センターノヴァにはふたつある。現実世界のセンターノヴァと、センターノヴァ世界のセンターノヴァだ。同じセンターノヴァでも、これらには本質的な違いある。9代目大島優子は13代目前田敦子すなわちセンターノヴァを、またその先を目指していた。ライバルと戦う動機は、ライバルに対する再帰憧れ、あるいはライバルに勝つ理念としての自分に対する抽象的憧れだろう。そのじつは、超越というには現実すぎる思いだったと解釈する。じゃあ13代目前田敦子の超越さというのはなんなのかというのが問いになる。センターノヴァ性という性質を仮想すると、じゃあこれはそれぞれのキャラクターにおいてどうなのかという妄想の種がこぼれる。凪沙が13代目前田敦子に近い魂の資質をもっているとして、それがまさにセンターノヴァ性なのかいうと、とてもそんな予感を得られない。すごさとか超越とか、そういう形容からは無縁に思える。そう思うのであれば、13代目前田敦子もそんな気がする。センターノヴァ性というのは、圧倒さみたいなものではぜんぜんないのかもしれない。なんか、ぱっとしなさ、ぴんとこなさみたいなものにむしろ近いのでは、という疑いも出てくる。プリティーリズムのあいらを連想する。あいらは主人公らしからぬ我の薄さによって救う者としての立ち位置が強調されていたように思う。また、憧れられる者としても。