統計と一回性

交通事故に遭う確率、自分が遭うかどうかは0か1で、遭ってしまったら1だみたいなそういう話。それと関係あるかはわからないけど、統計的に人間の行動はこうだ、というものがあって、それに対して自分はその枠のなかに過ぎないのでは、みたいな矮小感があったとして。また、それと関係あるかはわからないけど、じゃあそういう確率で自分を説明可能なのだとしたら、それで説明可能な部分は無視して、自分にとっての意味だけ考えればいいのではとも。それと関係あるかわからないけど、自分の網羅的なライフログが可能になったとしても、そこで見えてくるのは人間の統計なのでは、じゃあライフログはどうでもよくて、自分の勝手気ままな日記さえ、読みにくいかたちで残しておけばそれだけが意味なのでは、とも思う。ライフログで人間を説明できて、それによって自分が説明されるというのはアトラクションとしてはおもいろいかもしれないけど、その労力は物好きな研究者だけが払えばよいのではと。答えが統計になるのだとしたらその「自分の」は別にあってもなくても、という感じ。だから、「自分の」という点について「自分にとって」で思うのなら、答えの出るライフログよりも、二度と読み返さないかもしれない日記のほうがまだ意味可能性があるのでは、やる意味があるのでは、と感じる。