学問に貢献できるウェブのアーキテクチャとは

学問とは何か(その1) - マキペディア(発行人・牧野紀之)
学問とは何か(その2) - マキペディア(発行人・牧野紀之)
牧野先生のドイツ語の授業を受けたことがあります。上に挙げた、学問についてのお話も授業中にうかがって印象に残っていました。お話をうかがうたびに教育に対する真摯さが伝わってきて、教育者として尊敬しています。
牧野先生から教わったことを振り返りつつ、情報学の観点から学問について考えてみます。

学問のあり方

学問とは「現実生活の問題から出発する」ものであり「体系にまとめる」べきであるという意見は授業でもうかがったことがあります。そのときは周期表を例にして、規則を明らかにしたことで新しい発見がどんどん生まれるきかっけになった、というお話をしていただきました。体系が学問を推し進めるパワーになるのは、我々が知的生産に興じる際にまとまりや関わりというものを意識せざるをえないからだと思います。
現実の問題から出発すべきというのは、たとえば工学であれば自然な主張でしょう。しかし哲学の現状がそれに反しているというのは、失礼ながら我々のイメージどおりだと思います。現実の問題というものをどう解釈するかは微妙でしょうが、研究者は専門分野において問題意識を張り巡らすべきであるという教訓がまず読み取れると思います。これは牧野先生の「直面した問題から逃げない」という主張にも通じます。

情報学のあり方

牧野先生はウェブ上にご自身の考えや調査結果を積極的に公開なさっています。その内容の豊かさに驚きを感じる一方で、ふだんウェブで遊んでいるひとにとっては違和感を覚えるところもあると思います。ブログを辞典づくりのツールとして使い、別のブログで「マキペディア」の総目次のようにまとめるという方法は一般的ではありません。
しかしこの方法は、項目ごとのページをつくり、50音順で索引をつくり、日付でリンクを張るという牧野先生の要求をすべて満たしています(詳しくは私のブログ体験 - マキペディア(発行人・牧野紀之)をお読みください)。これはこれでめでたしなのですが、なんともむずがゆさを感じます。
この方法にたどり着く以前に、ブログで事典をつくりたいというお話、またWikipediaで失敗したというお話を授業でうかがいました。そのやり方を教えてほしい、できるようにしてほしい、それがきみたち(情報系の大学生)の役割だろう、とおっしゃったのが印象に残っています。それは情報学のとても大事な一側面だと思いました。
情報学の担うべき役割の一つは、人間のもつ情報処理や情報発信についての目的や欲求を満たすことだと思います。山形さんが指摘するように*1コンピュータによる知的生産の支援はたいした変化をもたらさないかもしれません。しかしその可能性を追求するのは学問として健全な姿です。ならば、そこんとこにこだわってもよいはずです。

学問とアーキテクチャ

見出しとして「学問に貢献できるウェブのアーキテクチャとは」という問いかけをさせていただきましたが、僕はその答えに到底たどり着いていません。しかし自分自身に問いかけるとともに問題提起をさせていただくことはできます。
牧野先生に対するもう一つの違和感は、自分一人の手で知識を体系化しようという、ウェブにしてはマイナーな試みに関してでしょう。ウェブで価値のある情報とはブクマされている記事やトラバの集まる記事、またWikipediaとかに何人かが書き足した情報などで、自分一人で情報を整理しても誰得、と感じるひともいるかもしれません(偏見すぎますか)。
情報発信のプロセスは情報の内容に大きく関わります。大学の先生がウェブじゃなくて本を読めとおっしゃるのも編集や校正などのプロセスがあるからでしょう。他方で、フォークソノミーや共同編集などのプロセスを通してこそ引き立つ内容もあります。
さて、学問が体系化によって価値を生み出すとしたら、情報学が学問に貢献しようとするときの問題は、体系化を支援するアーキテクチャをいかに実現するかということです。
賛否はあれどWikiなどの共同編集システムは現時点での答えのひとつでしょう。はてブのようにボロクソにいわれるアーキテクチャもあります(梅田望夫氏の開き直り - 池田信夫 blog)。池田先生の意見は極論かもしれませんが、アーキテクチャが知的生産に影響を及ぼすのは事実でしょう。
学問の立場からは、分野横断的な学術事典をつくろうという試みもあります(2009-05-27 - 「総合学術辞典フォーラム」参加報告 - 反言子)。長尾先生の考えを借りれば、オントロジー中心の学問を目指すという試みです(長尾のブログ2.0: 権威を壊し、権威を創る)。
ここからは個人的な印象になります。依然として、学問の成果というのは一人の研究者によるまとまった情報発信に寄るところが大きいと思います(よく外国の研究者が出版するような一冊の分厚い本をイメージして)。また学会の発行する学術事典もかなりのクオリティだと思います。なんにせよ、こういった成果は何人かの研究者がわざわざ体系を意識して取り組んだ成果ではないでしょうか。
長尾先生の意見は、常に体系を意識した学問を目指しているように読み取れます。それを実現するには、学問の歴史を踏まえつつ情報技術の設計を考えることが不可欠だと思います。インターネットに対する幻想じみた期待も落ち着いて、情報技術が当たり前のものになったいまこそ、冷静な議論ができるのではないかという期待を個人的にいだいています。
具体的な話に踏み込めず恐縮ですが、その設計を考えることが情報学の取り組むべき問題の一つだと思うのです。



インターネットの現在と未来、そして学術書の現在と未来
岡本真『これからホームページをつくる研究者のために』 - 反言子
知識と権威のすべてをオントロジーに還元する - 反言子

*1:『新教養主義宣言』「情報処理で世界は変わるか?」がまさにその話でした。参考:山形浩生『新教養主義宣言』 - 反言子