情報化と社会

情報化と社会情報化と社会。そのまま、情報化と社会について書かれた本。

概要

「情報化社会とは何か」というところから、経済や教育、行政などにおける情報化のモデルや、その展望。ファクトリー・オートメーションや人工知能などの概念の説明も。

経済とかのあたりは、ある程度知識があったほうが良いと思います。シグマとかの数式がありましたが、政経の授業をまだやってない僕にはちんぷんかんぷんでした。

ただ、前半の情報化社会そのものについての話題は、専門知識がない僕でも面白く読めました。

全体的に内容が古い感じがするので、現状をふまえた上で読むべきだと思います。

情報化が社会に与える影響

まず、情報化が社会に与える影響について、積極肯定派と消極懐疑派のふたつの対立する意見があることを知りました。

一方の、積極肯定派の意見は、情報化を工業社会から情報社会への移行──いわゆる第三の波脱工業化社会アルビン・トフラー曰)──とし、社会生活の基本的構造を大きく変えていくというもの。

生産者と消費者が流通機構を媒介にする工業社会に対し、情報社会ではそれらを直接的に結び付け、さらには医療・教育・地域コミュニティにまで拡張される。そして、双方向性コミュニケーションが重要になり、社会参加型の社会へと向かっていく、とのこと。

他方の、消極懐疑派の意見は、情報化の利便性を受けたところで、生活の基盤となる法律や経済システム、個人のあり方までもが変わっていくというのは疑問だというもの。

現状は技術の変化ばかりが重視され、それが社会にどう影響するかはあまり論じられていないとのこと。コミュニケーションのあり方が変わることで社会の仕組みは変わらないのではないか。情報化社会というのは単なる産業社会の延長上にあるのではないか。などの意見があります。

感想

情報化社会という言葉をたびたび耳にし、現社の授業からも、“社会は情報化に向かっていくものだ”みたいに思い込んでいた僕にとって、この情報化における消極懐疑派の意見は、大変新鮮なのものでした。

確かに、技術の進歩には目をはるものがありますが、それが私たちの生活にどう影響しているか、というのは意外とわかりにくいものかもしれません。ユビキタスという言葉を近年よく耳にしますが、ユビキタス・コンピューティングの特徴のひとつは技術を感じさせないことだ、と僕は思います。

ユビキタスというと、障害者のための生活の話題がよく用いられるように思います。いたるとこにコンピュータが存在し、無意識のうちにその恩恵を受ける。生活の基盤を、コンピュータにより、より苦の少ないものにする。これがユビキタスの意義としてあると思います。

僕は、これはネガティブな技術だと思います(悪いという意味ではなく、マイナスをゼロに持ってくる感じ)。つまり、ユビキタスはより“技術らしくない技術”へと進歩していくと、なんとなく推測します。

この面では、ユビキタス(・コンピューティング)は社会基盤を大きく変革することはないように思えます。(ユビキタス・ネットワークについてはよくわかりませんが……)

ユビキタスに偏って述べましたが、“技術らしくない技術”というのは、やはりあると思います。他方で、“技術らしい技術”を大衆が求めるかというのも疑問です。

適当な類比ですが、CUIのOSよりGUIのOSが(民間においては)一般的なのを考えると、人々は“技術らしくない技術”を求めるんじゃないかな〜、とかなんとか。

“技術らしくない技術”っていうのは、いいかえれば“意識しない技術”であるといえると思います。

たとえば、グラフィカルユーザインタフェースWindows(マックが先駆だけど……ゲイツめ(゜д゜ ))が普及し、最近では、ブログとかのCMS(コンテンツ・マネジメント・システム)が普及し、技術を“意識しない技術”が広まっていると思います。(前者はコマンドラインの操作を学ぶ必要がなく、後者はHTMLを使えなくてもサイトによるコミュニケーションを成り立たせられます)

やっぱり、その根本にはそれが楽しいからという理由があると思います。視覚的にパソコンを触ってごにょごにょできる。HTMLみたいな記号のカタマリを見なくても、意見の交換・公表ができ、さらにはトラックバックやらでコミュニケーションができる。

極論ですが、僕は、人々は技術を意識しなくてすむ技術らしくない簡単で楽しい技術を求めるんだと思います。それが社会にどう影響するかなんてわかりませんが……。