学びて思わざれば則ち罔し

新学期

というわけで、今日から新しい学年となりました。僕の学科はクラス変えがないので、特に新鮮な気持ちはありませんが。

ただ、新しい担任がぜんぜん知らん人で、あんた誰? って感じなんですが。

そんで、いきなりノートを配り出す。「もしかして小中学でやった一言反省みたいなやつを毎日出せとかいいよるんやおまへんやろね、このお方は」とか思いながら、おおむねそのとおり。

なんか「宿題出す」とかいいよるんですよ。今日ひとつテーマを出すから、それについて書いてこいと。明日テストですよ? なんのおつもりでしょう。このクソヤローが。

学びて思わざれば則ち罔し 思いて学ばざれば則ち危うし (論語)

んで、そのテーマがこれ。

孔子か誰かのなんか偉い人の有名っぽい言葉です。

思うというのは考えること。勉強してばっかで考えんかったら、よくわからんよ。勉強せずに自分勝手に考えてるだけじゃ、デタラメになっちゃうよ。という意味。

んで、自分のいままでの学習とか、これからどうするかとかを考えて書いてこいとのこと。というわけで、ここで下書きをすることにします。

アウトプット

「思う」というのは「考える」ことだと授業で習った。「罔し」は「よくわかんねー」で、「危うし」は「トンデモ」、みたいな感じだったと覚えている。

「考える」ことは「アウトプット」のためだと思う。小学校とかで「わからないところは友達に聞きましょうね。友達がわからないことを教えてあげれば、自分ももっとよくわかるようになりますよ」とかいうけど、これが「アウトプット」で、また「考える」ことだと思う。

「説明ができるには、それを理解していなければいけない」とかいうことを聞いたようなきがする。よく覚えてないので、いま作ったのかも。とにかく「アウトプット」は「よくわかんねー」を「教えてやるよ」に変えるもんで、そのための手段が「考える」ことだと思う。

「学ば」ないのは知らないこと。「考える」ためには、知らなければいけない。なにを知るかって、「知を知るとし〜」とかいうよくわからん言葉をあるけど、とにかくなんか知らんといけない。

んで、知らんのに「考え」まくると、「トンデモ」だ。パスカルは宇宙についていっぱい「考え」た。でも、パスカルはなにも知らない。たぶん、いまの小学生の方が宇宙について知っている。パスカルがどんだけ考えまくったかは知らんけど、「人間は考える葦だ」とか「人間は宇宙がなんかスゲーことはしっとるけど、宇宙にはそんなことわかんね。だから人間は偉いんだ!」みたいな「トンデモ」をほざくしまつ。しかも、社会に教科書にまで載ってやがる。これが「危うし」ということだと思う。

でも、誰にもわからないことだから仕方がない。ご苦労様です。

その点、いまの僕たちは随分と良い環境にいると思う。「学ぶ」にも「考える」にも、めちゃくちゃ都合が良い環境だと思う。

大昔の図書館は、本が鎖で繋がれていたらしい。それほど書物が貴重だったということだ。また、思想を広めるには命がけの航海を行わなければいけなかった。

ところが、現代では、調べ(学び)たいことがあれば図書館やらウェブやらで、いくらでも情報が手に入る。印刷技術の進歩で「アウトプット」の複製が容易になり、ウェブでは即時・双方向・グローバル・フラットな「アウトプット」ができるようになった。「アウトプット」は「残す」ことだと思う。そして、それは「学ぶ」ために「残る」。そういう循環で「学ぶ」こと、「考える」ことが(文明とかの広い視野でも、個人の学習でも)深まっていくんだと思う。

最近、Weblog(ブログ)が流行っている。ブログは「アウトプット」をかなり容易にしたメディアだと思う。CMSコンテンツマネジメントシステム)などにより、HTMLやサーバなどの専門知識がないユーザでも簡単に情報の発信ができる。また、トラックバックなどの機能で双方向的な情報のやり取りもできる。自分の主張が他人から(それも見ず知らずの)言及されるということは、いい知れぬ喜びがあると思う。

この風潮からも、多くの人間は何かを主張したいという欲求があり、そして、それを楽しめるものなのだと思う。つまり、「考える」ことは楽しいからするのだと思う。テクノロジーの進歩はそれを助長し、文化に良い刺激を与えるはずだ。

でも、これは日本みたいな比較的豊かな国だからいえることかもしれない。Global Rich Listというサイトで自分の家の年収を入れてみたら、こんな平凡な家でも世界の上位10%以内に入っていた。「勉強したくてもできない人の分まで」とかいうけど、それもなんか変な気がする。まあ、できるんだからやっときゃいいか。

また、テクノロジーの進歩は「考える」ことを簡単にした。ある意味では複雑にしたのかもしれないけど。コンピュータの発達は「考える」必要をなくした。とはいっても、この場合の「考える」は計算とか分析とかの、いわゆる左脳的な処理だ。

その一方で、最近、暗黙知やら複雑系やら、なんかわけのわからんあいまいな言葉をよく聞くようになった。こういうごちゃごちゃしたわけのわからんものは、コンピュータには処理することができないものだと思う。

こういった、いわゆる右脳的な思考に共通することは、いずれもがマクロな視点からの思考だということだ。学問というのはほとんどが、分析して細分化していくものらしい。その一方で、複雑系みたいな、なんかわけのわからんごちゃごちゃしたことについて「考え」ていくというのは、テクノロジーが進歩したいまだからこそ始められることだと思う。

現在、「学ぶ」ことはどんどん簡単になり、「考える」ことがどんどん変化している時代だと思う。それは「考える」ことが簡単になりながらも、楽しくなることだと思う。ただ、ある意味では複雑になっているのかもしれない。例えば、“1 + 1 =”の答えを求めることか、“あなたはなぜ生きているのですか”という問いに答えること。どっちが難しいか、ということに普遍的な答えはないと思う。でも、やっぱり人間が「考え」て楽しいのは後者のはずだ。