「いじめ」は教育の題材になるのか?

きょう(24日)は学校で「いじめ」について考えさせられた(受身と自発)ので、それについて書いてみようと思います。
いつもどおり担任の先生の国語の授業がはじまるかと思いきや、先生はいきなり「きょうは大事な話があるから授業はやめ」とおっしゃいました。まず板書したのが、これ。
「なんであんたの顔見なあかんの」
「はよ死ね(クラス一同)」
僕のクラスでは「いじめ」が起こっているようです。被害者(なんか他に言い方がないものか……)のケータイに、上のようなメールが送られていたらしいです。これが一番ひどいもので、他にも「いじめ」のようなことをされているらしいです。
これについてアンケートを書き、そのあとクラス全員が一人ずつ前に出て、このことについて意見を言っていく、というふうに授業(?)が進んでいきました。
ところで、このサイトに書いたこともあると思うのですが、ちょうど昨年のいまごろ、クラスメートをひとり亡くしました。それもあって、僕たちのクラスでは「死ね」といった類の言葉はタブー視されています。クラスメートを亡くして考えたこともあるのに、こういった「いじめ」が起こっているわけです。


「学びの暴力」という危うさ

これについて「みんなで同じところで同じ時間に考えて、みんなに言って、みんなのことを聞く」という形で、この件について考えていきます。このように「いじめ」について考えるというのは、べつに特殊なことでもなく、じゅうぶん「教育」や「指導」と呼べるものだと思います。
ただ僕としては、学校で、このような心の奥深くを改めさせる教育を行うことに、すこし疑問を感じています。そのやりかたによっては、思想の押し付け、いってしまえば「洗脳」に近い行為、僕なりにいえば「学びの暴力」になってしまうからです。これについては、感動や衝撃は理性にはたらきかけるかという文章で述べました。
感動や衝撃は、考える者を思考停止におとしいれ、理性というフィルターを介さずに、直接人の価値観にはたらきかけます。今回のような「いじめ」について考える授業(以下、「いじめ教育」)についても、感動や衝撃が多く含まれているものです。重い雰囲気がのしかかるなかで考えさせられ、涙を流しながら語る女の子もいれば、自分のいじめられた体験について語る人もいました(意外といじめられてた人って多いんだよね……)。このような状況では、客観的な意見が求められていないことは明らかです。感情的に考え、そして語ることに迫られます。
もちろん、この「いじめ教育」および体験学習やビデオ学習なども、教育において大きな意義があります。黒板に字を書いて授業をするだけでは、どうしても実感のもてないことがあるからです。こういったことに関心を向けさせ、また、考えるきっかけを持たせるためにも、感動や衝撃を与える教育は不可欠です。
しかし、ここで注意すべきことがあります。ここで学べることは、あくまで考える「きっかけ」だということです。感動や衝撃で子どもの心を動かすだけでは、それこそ洗脳になってしまいます。心の問題について考えるのは学ぶ者自身であり、価値観のすべてを教育者が決めるべきではありません。つまり、感動や衝撃の伴った学習は「きっかけ」としては重要であるが、それだけで完結してはいけないということです。


いじめ=日常/非日常=いじめ教育

これを「いじめ教育」に当てはめると、「『いじめ教育』は『いじめ』について考えるきっかけとしては重要だが、それ自体で『いじめ』を解決することはできない」ということです。「いじめ」をなくす(あるいは、すこしでも良い方向に向かわせる)には、日々の学校生活そのものを変える必要があります。「たまに考えてみる」ことでは、意味はありません。「いじめ」は日常の中で起こっているからです。
これについて、「日常/非日常」という構造で考えていこうと思います。
まず、「いじめ」は「日常」です。「いじめ」は全国どこでも起こっていて、突発的でなく日々起こっていて、いじめる側もいじめられる側も実はふつうの学生であることがほとんどです。どこまでが「ふつう」であるかという境界線にもよるのですが、いじめる心は、それまでの環境や人生による長期的な影響から、つまり日常から生まれる心です。「いじめ」という事実や、いじめる側の人間は、日常にこそ存在しています。
そうすると、「いじめ」をなくすには日常を変える必要があります。そのためにまず行うのが、「非日常」である「いじめ教育」です。「いじめ教育」が非日常であるのは、それが、作られた状況において行われるからです。その状況というのは、先ほど挙げた雰囲気や涙や告白といった、「学びの暴力」をもたらしやすい要素から作られます。
「いじめ」を解決するにはどうすれば良いのだろう。──と、皆がそう考えていれば、「いじめ」は起こりません。「いじめ教育」の場においては、この疑問を皆が考えているという点で、すでに「いじめ」は解決しています。これが続けば、これが日常にまでおよぶのならば、「いじめ」は完全に解決します。つまり、「いじめ」について考えることは、すなわち「いじめ」の解決であるのです。
しかし、「いじめ」について常に考えることは、簡単ではありません。「いじめ教育」という作られた状況においては、考えやすいし、意見も述べやすいです。問題は、それが終わった後に何を考えられるかということです。
僕のクラスを例に挙げましょう。
この授業が終わった後、しばらくクラスの雰囲気は沈んでいました。しだいに重い雰囲気も晴れていき、(いまここを書いているのは25日なんですが)いまではいつもどおりのクラスの戻っています。それでも、一部で「人を傷つけること」うんぬんと話している人もいて、ちょっと感心しました。
これはけっして間違った流れではありません。クラスのみんなが、忌むべきこと避けて、いつもの良い雰囲気に戻そうとした結果です。言い換えれば、みんなが嫌なことを忘れようとした結果です。
ここで問題になるのが、「嫌なこと」とは何かということです。僕もあのときの雰囲気はもう経験したくありません。だからといって、「いじめ」についての考えそのものまで忘れてしまってはいけません。それは忌むべきことでもなければ、嫌なことでもありません。心に留めておくべきものです。
このように、雰囲気は日常に戻りました。では、非日常すなわち「いじめ」教育から考えたことは、どこへいったのでしょう。正直なところ、わかりようがありません。本音をきこうにも話そうにも、日常では難しいです。

カキカケ


矛盾、不条理、妥協……学ばなければいけないのか?

カキカケ


雑感──言葉を噛み締める、心の中の闇が爆発する、みんなすごい納得できるけどなんか違うかなとも思う、変なまとめもできんから、そもそも「いじめ」はなくなるのか、ところで僕はどうなんだ?、本当の友達とは

カキカケ