文章を書く。まずは自戒からだ。

  • 悩む前に書く
  • 書く前に調べない

以上だ。

仮題:効率化されたウェブの情報のあり方にうんざり

まずはこの文章を書くきっかけについて述べよう。「感情と理論は両立します」という記事を読んだ。僕もこの意見に同意する。人に向けて何かを伝えるとき、感情を少しでも伝えやすくするためにも、論理は大切だと思う。
ここである感情が浮かんだ。以前から思っていることだが、ウェブの効率化された情報提供に疑問を抱いている。たとえばRSSSBMというシステム、それらにおける羅列という形式などが、効率化された情報提供である。羅列によって余計な情報を省くことで、目的の情報を直接得られる。検索やリンク巡りなどの煩わしい行為を介さなくてもよいのだ。
また、昨今のサイトはほとんどがウェブログ形式つまり日々追記していくタイプのサイトである。これもまたウェブでの溢れる情報が背景にあるのではないか。ウェブ全体としての情報量も莫大なものだが、それに加えて、新しい情報が日々増えつづけている。これらを収集し、利用していくには、ブログというサイト形式がうってつけである。
羅列により効率化に加え、この即時性もウェブの情報の大きな特徴である。僕はこういった合理性に違和感を感じているのだ。
情報提供の効率化は、情報を細切れにしてしまい、読み応えや知識の広がりを欠かせてしまう。ワールド・ワイド・ウェブは、ハイパーリンクやネットサーフィンといった言葉に象徴されるように、知識の広がりに主眼がおかれている。検索やハイパーリンクを辿ることで終わりなき探求に踏み込むことができる。(書きかけ。課題:情報提供の合理化がウェブの魅力の一部を失わせていることを説明する。効率化によって「無駄足」がなくなったこと。即時性はあまり大切でないということ)
(この辺でRBBの「輪」の記事で根拠付けよう。根拠になるかはしらんが)
(どこに「効率化の記事」を載せよう?)
以上は、ウェブの合理性に対する僕なりの感情論であって、実際にウェブの合理性が崩れることは考えにくい。それでも僕はウェブの魅力を模索していきたい。そのためには、論じるだけでなく、自ら行動を起こすことが重要だ。サイト論がよく批判されるのは、日々のサイト運営そのものがサイト論に相当するため、わざわざ論じる必要性が薄いからだ。実際の運営に活かせない論は、机上の空論でしかない。
しかし、論じることも行動である。それもまたサイト運営の一環であるからだ。ところで僕は、何かを主張するとき、その主張は、その主張に相応しいものであるべきだと思っている。たとえば、「論理的にせよ」と訴えるには、その訴え自体が論理的でないと説得力がない。ウェブの魅力を模索したいと主張した今、この文章自体がウェブにおいて魅力的でなければいけない! この文章が多くの人を魅了できたとき、はじめてこの文章はサイト論として成立するのだ(したがって、たぶんこれはサイト論ではない……)。(このへんはかなり主観がはいっているのでメチャクチャにならないように書かないと)
合理性に勝る魅力にはどのようなものがあるだろう。その一つは「物語」である。(ここでエジケンさんの記事を引用。これに感銘を受けた云々。論理に代わる説得力、物語)
では、サイトにおける「物語」とはなんだろうか。(話が広がりすぎる。どこで折り合いをつける?)



(思ったんだけど、これうpしちゃうと○たんのアレに書くことがなくなっちゃう。視点はいくつかあるけど、やはりいくつかに絞らなければいけない)

(中略)

かといって、「物語」の構築には難しい面もある。無限に情報が展開されていくウェブだからこそ、「物語」に収集がつかなくなる恐れがある。(ここでニューラルネットと外部物語・内部物語について)(個人ニュースサイターの内部物語ってすごいんじゃないか、ということ)したがって、どこで折り合いをつけるかが難しい。(一歩間違えれば、というか間違えるとかじゃないけど、ただの日記サイト?)


などなど。