無題

怪我をすると血がでる。そんな事実を、きょう、思い出した。ということは、きょうまで、忘れていた。なぜか。平和だからか。関係ない。さして、重要でないからである。
忘れていたときに思い出すと、そうか、と思う。わからないことがわかったときも、そうか、と思う。この感覚は近い。もしかして、人間はあらかじめすべてを覚えているのではないか。すべてを忘れたところからはじまり、思い出すことと、忘れることの、せめぎあいのなかで生きていく。何ものをも、思い出すことしかない。答えはすでにある。僕はすでに、あらゆる事実を知っていた。
怪我をして血がでたから、思い出した。じりじりと痛むこの感覚は懐かしい。怪我をするということを、どれだけのあいだ忘れていただろう。僕は、注射されるところとか、リストカットをするところを想像するのは苦手である。かなり気持ち悪くなる。いざ怪我をしてみれば、しかし、痛いのに、血がでているのに、気持ち悪くない。懐かしい。これが怪我だ。そうか。
ちなみに体育のときの怪我で、いじめとかではない。擦り傷である。痛みに酔ってか、傷口を引っ掻いてやろうかと思った。危ない。なぜかはわからない。ただ、もっと多くのことを思い出せるのではないかと考えた。というのは、後づけである。実は、マゾかサドの気があるのかもしれない。
ところで、傷をみて心配してくれた女の子、ありがとう。そんなときに僕は、和泉亜子さんがいたら手当てしてくれるのかなあ、とか妄想して萌えていた。和泉さんは絶対ものすごい伏線がある!とか連想していた。最悪である。とはいえ、僕の好きなのはゆえゆえである。もちろん、ゆえゆえの友達である本屋ちゃんやパルのことも大切である。同じ図書館探検部であるこのちゃんももちろん、その友達のせっちゃんもそうだ。みんな大切なクラスメートだ。最悪である。
肘を机におけないため、ぎくしゃくしながら授業を受けた。それでも問題なく授業を終えた。血はもう固まった。そのぶん、動かすとぴりぴりと痛むようになった。とくに思い出すことはない。放課、下校である。
帰りは満員電車であった。定期テスト前のため、部活がないからだ。ただでさえ、肘という部分は周りに触れやすい。もし僕が武士であるなら、刀の鞘が当たるだけですむのだが、そうはいかない。現代人は武器をもたないからだ。肘を怪我したというのも、したがって、必然的でもある。だからこそ、守らねばならない。武器を失っても、人には守るべきものがあり、守らねばならないのだ。
周りには女の子。うなじに対する魅力を思い出したのは、いつごろだろうか。うなじはしばしば性的なものとして描写されるのが、僕は、その魅力を長いあいだ忘れていた。思い出したのはついさいきん。満員であるため、そのうなじには汗がにじんでいる。その魅力を思い出したのも、またさいきんである。思い出すことを繰り返すことで、忘れにくくなる。おそらく、僕はこの魅力をもう忘れない。これからも、何度もこの魅力を思い出すから。絶対に。
そんなときも、この肘だけは守らねばならない。固まったとはいえ、(女子高生の制服に)触れれば血のつくおそれがある。人に迷惑をかけてはいけない。ずいぶん昔から思い出し、そして何度も忘れていることである。取っ手は遠くにあるし、狭いから壁にもたれることもままならない。それでも守るべきものを守りとおし、僕は満員電車を降りた。
左脇腹が痛い。右肩がこる。首筋に違和。こころなしか頭も痛い。暑い。先日の「書きかけシリーズ1」を思い出した。つまり、構造が崩壊した。肘の欠落が、構造を破壊した。
人間は有機体であると思い出した。有機というのは、二つの意味がある。命あること。綿密に絡み合っていること。
情報もそうだ。命を吹き込む。すると、情報は活き活きする。情報は、書き手と読み手のあいだをみちびくものである。書き手と読み手が絡み合ったとき、それはまさに有機である。書き手の独善も、読み手の怠惰も、許されない。わずかな欠落ですら、命は崩壊してしまう。大切なところ守るだけでは、命を破壊してしまう。書き手を忘れるな。読み手を忘れるな。思い出せ。守るべきものは何か。