できそこないの知性を抑えて、からだの声に耳を傾ける

からだの声が聞こえた。はじめはつかれるまで手を振ったり、息が上がったから足の力でぐいぐい前に押すようにしたり、腕の振りを前、後、前……でなく、前(左)、前(右)、前(左)、……と意識してみたり、そのような小細工でつぎはぎした。そのうち疲れて、手も振れない足の力も出せない。息があがる。そのままペースが落ちた。
そのとき考えたのは、からだの声を聞いて最善を尽くした──だが体力が足りなかった、限界がきたのだ、ということだ。つらい。つらい。つまらない。楽しくない。嫌だ。
だらだらと走る。そのうちつかれが少しとれた。急にペースがつかめる。あれ、なんか、遅くないぞ。このまま、いけそうだ。手を振る、足を踏み出す、深く、しかし乱れずに息を吐き、吸う。これよりもペースは落ちない。そういう実感があった。いわゆるランナーズ・ハイというほどでもないし、もともとの能力から、それほど速く走っているわけでもない。だが、実感があったのだ。走っている。力を、引き出している。
からだの声にからだをゆだねる。そうだ。計算はからだがおこなうのだ。手、足、呼吸、すべてのシステムが、からだの声に統率される。完璧なる計算で。
集中できないと感じることがある。なぜなら、集中できないと感じているからだ。この状態を、僕はおろかにも、メタ認知とよんでいる。ひどい合理化である。
からだの声に従う僕は、しかしメタ認知していた。僕のできそこないの知性は、計算を狂わせてしまうのではないかと、処女のように怯えた。はじめてなんだもの。いや、なにかレベルが違う。からだの声は聞こえます。僕はあなたに従います。僕は僕を認知します。僕はあなたの声を聞き、あなたの計算を信頼し、そして、そうであるいまを自覚しています。あなたの声の、上か、下かで、マルチタスクで、機能しています。洗練された心身二元論など、どうでもよい。からだにはこころがある。そうでなければ、あなたはなにだというのか。
できそこないの僕の知性は、いけない。侵す。手を出すな。つかれたな、と認知する。からだの声は、そう答えたのか? つかれたよね? 尋ねるな。計算を狂わせてしまう。明確に自覚できるこのレベルは、知性は、やっかいなものだ。つらい、つらい、つまらない。楽しくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。嫌だ。
知的活動の苦しみ、まして「生産」をともなうそれは、時間が進むほどに圧せられる、できないかぎり責められつづける、つまり終えなければ終わらない、為さねば成らない、為さねばならない、こころを挫く、挫かれたが最期、終わらない、絶望への入り口、奈落へといざなう声。からだの声は屈しない。計算は完璧である。からだは、なんと楽か!
信号機、前を走るクラスメート。からだは、そういった物理的制約を超越できない。一度ペースを落とせば、つらい、嫌だ、嫌だと、ペースが戻るまでずっとそう思う。不思議なものだ。僕のできそこないの知性によれば、ペースを落とすことで、楽になる。なのに、からだの声が聞こえない。つらい、つらい、つらい。これは僕である。僕のできそこないの、知性である。あなたの声を、聞かせてください。
からだの声を途絶えさせたのは、こころではない。単なる、物。つまるところ、からだにこころはない。やはり。僕がこころをもってからだに接しないかぎり、からだからこころを感じられないからだ。からだの声は、僕のこころにはたらきかけないからだ。からだの声はこころであるが、それを感じるのは、僕がからだの声にこころをはたらきかけているときだけである。みずからのこころを対象に投影し、こころを通わせること。つまり萌えることだ。物に対してこころを通わせるには、萌えるしかない。
つらくない。楽しくなくない。つまらなくない。手を、足を、呼吸を、システムを閾値に引き戻せば、ふたたびからだの声が聞こえる。盲信する。こころがからだに接するのは禁忌であるか? そんなはずはない。からだにこころはないからだ。一方的に侵せばいい。
ふたたびだ。からだの声は統率する。完璧なる計算のもと、システムは最善の答えを解しつづけ、返しつづける。あらゆる誤差を意に介さず、あらゆる機微を味方につける。あなたの声を聞くと、僕は繰り返し思います。からだにこころはあるのだ。そうでなければ、あなたはなにだというのか。
蛇足:萌えている世界は萌えていない世界とは別ものである。
(2005-09-20)