なぜ計算をするとわかるのか

解答を写すのは仕方がない、しかし計算だけは自分でやるべきだ、とよく聞く。意義のひとつは計算力をつけること。もっともだ。そして不思議なのが、計算をすると、わからないものがわかるようになることだ。こう答えられる。計算することで論理の移りゆくさまをなぞる、だからわかるのだ。そうなのか。計算は論理の組み替えともいえるときがあるが、単純作業でしかない、と思うときもある。単純作業をしているのにわかる。
ひとに声をかける。はじめに話すとき「え?」と返ってくることが多い。コミュニケーションを開始するコミュニケーションを開始していないからだろう。事前に「なあなあ」などと声をかけるのが効果的だが、一度「え?」と返ってきたらなにか別の対応をしなければならない。
そこで何気なくやってしまうのが、キーワードに形容詞を付け加えること、あるいは略語化されたものを元の名でよぶことなどだ。一度こちらに注意を引きつけた以上、こういった対応はなくてもかまわないはずだ。しかし冗長性を加えることで、なにか安心を感じる。これだけ長いあいだしゃべっているのだ。だから、伝わるだろう。この「だから」にはなんの根拠もないのに。
数学は速読できない。「声」をきかなければいけない。いまひらめくに、これが僕に対する答えだろう。論理への理解だけで問題を解けるわけではない。単純作業ともいえるような計算に「声」がひそんでいる。それがなにかはわからない。というか、ないやろ。計算しないとできない、計算するとわかる、その違いを「声」とよぼう。それほどあいまいなものだ。ひとつ戒めるに、いまのところ僕は、数学に対して「速読」したり「効率」を求めたりはできない。いや、さらに、あらゆる学問に対しても同様である。

  • メモ
    • あいだのパラグラフがものすごく浮いている。ひどいw
    • 音読するとなぜわかるか。読むのが遅いからである。では、遅く読めばよいか。それだけでは流れ(リズム)がつかめない。流れには意味の曲調が込められている。流れに乗じて遅く読む、すなわち音読するからわかるのだ。
    • 「言葉への理解」と「意味への理解」は別ものであると思う。「言葉」を速読して捉えることはできない。