守るために勉強するのか? 何を?

  • 学生は勉強しないと不都合なことがいろいろ起こる。
    • 守らないと拘束を受ける。どんなのか。時間または作業である。
    • どうせならばいましようと考える。そこで彼らは守るために勉強するのだ。
  • しかし守るために勉強できなかった。
    • どうしようもなく学生である。
    • (しかし)
    • 高校生から大学生へのはざまにおいて一旦、僕たちは社会人になるのではないかと思う。
  • 攻撃するとき、敵は存在しない。
学生は勉強しないと不都合なことがいろいろ起こる。テストで点が取れなかったり、未提出の課題を催促されたり、僕は課されたことができない人間で、これからも変わらないだろう、しかし破滅しないあたりが学生と社会人の違いであるなあ、たり、親から愚痴をいわれたりする。勉強をするという拘束から逃げ出すことで、そのことを咎める拘束に襲われるのだ。どうせならば勉強すればよいではないか。勉強している多くのひとは、そういうわけなのだろう。
ところが、はじめはそのようなことを意識していない。中学生のころはそうだった。勉強することは当たり前であると認識するまでもなく、何も認識していなかった。勉強することに伴って何かを認識するという発想そのものがなかったのだ。成長すると自我が芽生える。勉強はしたくないけれど、逃げるコストのほうが大きいから、どうせならばいましようと考える。そこで彼らは守るために勉強するのだ。
しかし守るために勉強できなかった。そのことを咎める拘束からも逃げ出した。どうということはないなと味を占めた。これが学生である。すべきことはあるが、為さねば済まないことはない。ところがどっこいしょ。為さねば済まないことに迫られている。もうだいぶ以前からである。もうだいぶ以前から、どうしようもなく学生である。私事だが。
守らないと拘束を受ける。どんなのか。時間または作業である。作業を強いられるのは厄介だ。しかし所詮、すべきことにすぎない。作業をこなすのも守るために勉強することだ。今度は何をだ。「これ以上の拘束」である。なんとあほらしい。変わらないではないか。逃げつづける限り、作業という拘束は、積み重ねられない。逃げつづける僕にとっては、あるか、ないか、それだけの問題だ。時間を奪われることはどうか。それもありえない。時間を認識するのは僕だ。数時間にわたって先生の前で説教を受けようとも、僕の意識が奪われることはない。ゆえに僕の時間は奪われない。それ以上の刑罰に処すというのならば、守りに出るしかないけれど。
現実は、はあ、不都合だ。高校生から大学生へのはざまにおいて一旦、僕たちは社会人になるのではないかと思う。強いられることが社会人へのそれと似ている、と推測しているからだ。
攻撃は最大の防御という。暗に「相手が攻撃するよりも先において」という前提が伴っているだろう。防御が相手に「応じる」という後出しの行為であるのに対し、攻撃は相手が動くより先に「みずから」仕掛けるものである。攻撃するとき、もっとも注意すべきは自分である。何もしない相手には何も対応できないからだ。また、変わらない周りに悩むくらいなら自分から変われば良いという。敵ですらない相手を防御することはできない、という図式に近いものを覚える。攻撃するとき、敵は存在しない。
(攻めるために勉強したい、と思ってみた。「守るために勉強する」という言い回しを先に思いつき、それならば、と連想した言い回しである。では、どのようなものだろうか。よくわからない。そもそも攻撃と防御を二元化すること自体、現実への暴力である。学生においてもそうだろうか。よくわからない。思ったほど敵は存在しないのではないかな。いやはやどうにもさいきんは文章を締められない。おおもとの要求は、おまえに文句を言われたくない、ということだ。ならば攻撃するしかないだろう。防御は攻撃を封じることはできない。攻撃を封じることができるのは攻撃である。では、攻められないために、攻めるために勉強するのか。正直にいうと、どうしようもなく学生である)