ひとから育てられること→みずから育つこと→ひとを育てること

僕より若いあなたに助言したい、とかりたてられる。おこがましいが、育てたい、と思っているのだろう。こうすればよかった、せめて彼女にはこうしてもらいたい。そうすることで僕の後悔が救われるからだ。……ああなんということだ、思わず後悔という言葉を遣ってしまった。たしかにそうだ、認めるしかない。
後悔しない性格だと自覚している。過去のおこないを悔やんで、もう一度やり直したいとは思わないからだ。なるべくしてなっていまがある、と考えている。ひとによっては不愉快に感じるだろうなあ。助言したいという思いは、しかし後悔と同じだろう。過去をやり直せないことを認識し、それならばと、実質的な過去に介入しようとする。つまり彼女に助言したい。育ちそこなったと自覚するから、ひとを育てたいと思ってしまうのだろう。
公的にも、指摘にも、僕を育ててくれるメッセージにはたびたび出会う。そのもとにはどのような思いがあるのだろうか。僕と同じような動機づけで、彼が伝えようと思い立ったのなら、絶対に受けとめたい。僕が彼を無視してみろ。これからまさに同じことを試みる僕を、いったいだれが受けとめてくれる?
そのことに気づいたのは良いね、と自賛してしまった。僕と同じ思いをこころに潜めて、ただ僕よりも少しはやくこの世に生まれついた彼は、大変に申し訳ないけれども、僕のためにあらかじめ後悔してくれたのだろう、とか、都合の良いことを考えてみる。考えてみるだけ。
いろいろなひとがいる。彼らが僕に与える影響は、彼らがどのようなひとであるかよりも、彼らがどのような関係に位置しているかにかかっている気がする。彼女が僕よりも少しはやくこの世に生まれついていたら、彼女からどれほど育てられるかは計り知れない。彼が僕よりも少しおそくこの世に生まれついていたら、彼をどれほど育てたいと望むかは計り知れない。彼と彼女と僕があらかじめ定められた技能や思考をもっていても、僕たちがどのような関係であるかによって、結果(産出される人間とでもいおう)が大きく異なる。
(あなたに伝えたい。しかし、まってほしい。じつは伝えられるほどのメッセージなどもっていない。育っていない、ともいえる。僕があるひとから育てられることと、あるひとが僕を育てることは、現象としては同じだ。しかし互いの認識には大きな隔たりがあるのではないか。「しかし──ではないか」といってそれらしくほのめかしてみた。意味はわからない。いま、かなり難しいことを書いているのではないか、と思う。ここにきて「育てる」を「言葉をかける」というほどの意味で捉えていることに気づいた。そこで「育つ」という言葉を遣っているのだろう。よくわからないことを書こうとしている。もうやめておこう。ただ上の太字にしたところは、とりあえず実感できているし、真理ではないけれど、好きな考え方ではある。こういう文章は公開しないほうがよいだろうか。むりやり完結させたほうがよろしいでしょうか。未完結の僕を望むひともいるのでありましょうか)