ひとつの意味はどのように認識されるのか

先日あげた問い「わかりやすさとは何か」、これと並んで関心を引かれる問いがある。「ひとつの意味」はどのように認識されるのか、ということである。言い換えるに、チャンク化だか、コード化だかは、どのようにおこなわれるか。学習においてそれがどう影響するのだろうか。また、それはひとでないものにも可能なのか(「ひとでなし」とは別物である)。(ところで「分かる」という言葉も示唆深い)
『上達の法則』『スランプ克服の法則』のどちらか忘れたが、このような例があった。日本舞踊だがなんだかを観させ、素人と玄人それぞれに「ひとつの意味」で演技を分けていくよう命じた。その際「できる限り細かく/できる限り大きく」というふたつの視点で分節化させたのだ。その結果、玄人は、より細かく、より大きく分節化した。精通しているほど「ひとつの意味」を幅広く捉えることができるということだ。

問いだけ投げて仮説も返さずに筆を置くのは好ましくないが、どうしようもないのでどうにもしない。