不都合な価値を貶める思考操作

「できること」「したこと」がない。そういうのを問われると泣く。問われていないから、いまのところ、かろうじて泣いていない。推薦入試などを試みていたら毎晩枕を濡らしていたろう。
「高校生活で体験したこと、またそこから得たことはなんですか」
「ウェブしてました。馴れ合いました」
部活はやっていない。行事にも消極的だ。やや大きな役割に任じられたこともあるが、そこでリーダーシップを発揮するような人間でない。勉強もしていない。
「特技はなんですか。たとえばどんなことができますか」
「できます。人間だからいろいろなことができます。とにかくできます」
「できる」という言葉に怯える。僕にとってあまりに実態の見えない概念である。「できる」というのは、たとえばこう用いられる。「ギターができる」「絵画ができる」「プログラミングができる」「皿回しができる」できない。似たような表現をいくら列挙しても、僕に合致するものは現れそうにない。質を問わねばだれにでもできること、「議論ができる」「評論ができる」「小説ができる」「読書ができる」などと言うのはさらに恐ろしい。「では、やってみましょうか」と提案されたら、たぶん殺したくなる。
ですから僕は、できることはない、と言うしかない。なぜなら、ないし、また実際に、ないからだ(こういう言い回しに深い意味を見出すのは不毛である)。ところで「順接→理由」(Bだ。ゆえにAだ。なぜならB’だから)という文のつながりには違和感を覚える。とても粗末な気がする。
この続きが書けないので、いまウェブしていた。ふたたびテキストエディタを開いた。続きが書けるぞ。こう思ったのだ。人文系において、何かができるというアピールは、どういうものがあるだろうか。そしてこう思うに至った。「できる」ということに意味は含まれない。それは、意味の入れ物であったり、意味を表現する手段であったり、だ。
僕は「プログラミング」という言葉に魅力を感じない。うげ、と思う。「プログラマー」に至っては人外である。ロリコンかもしれない。しかし一方で、それが「生命」「知能」「システム」などの文脈において用いられるとき、胸躍り心昂ぶる憧れの先輩を蔭で見守る乙女。
さきほどの例で言うなら、「皿回しができる」ということに価値があるのではない! 大切なのは、「皿回し」という手段、入れ物をもって、何かを表現したり構築したりすることだ。だから「皿回し」そのものに魅力は感じない。「皿回し」という手段で表現できる何か。「皿回し」という入れ物に美しく収まる何か。魅せられた何かがあってこそ「できる」という手段、入れ物に意味が伴うのだ。
どんどん、どんどんだ。どんどん、「できる」ことの価値を貶めている実感。そう、「何ができますか」なんて問い、まともに機能するのはごく特殊な状況においてのみ。教育者を志す者に問うてみろ。「教育ができます」と答える。可笑しい。「プログラミングができます」す、すっげえ、可笑しい。まぢで意味がわからん。「プログラミングができます」(笑) おいおい、まいっちゃうねこれ。「皿回しができます」(笑) ひっでえナンセンス。意味がない。ないないない。
で、まあ、ここで「したこと」という視点が重要になってくるんだろう。し、この点については、「僕は何もしてないから」という屁理屈で一蹴することはできない。し、大切なんだけど、まあこれもね。可笑しい。「老人介護のボランティアをしました」「○○の研修プログラムに参加しました」笑っちゃうね。ここにも意味はない。意味がない。