四コママンガに見出しは必要であるかという疑問、あるいは小見出しのたくさんついた文章はいかにも記事な感じがしてついついクリップしてしまう症候群

やばい。わけが、わからない!
評論とは何か。わたくしは主にこのふたつに分類している。

  • おもしろがり方を説明する。
  • 問題と解決を記述する。疑問符から感嘆符へ。

みなさまにはお教えしませんが、わたくし、きょうとてもおもしろい妄想をしていました。物語系でなく発想系のほうの妄想です。これ、実現したらとてもおもしろい。
脈絡のない余談をふたつほど置いたところで、さて、本題に移りましょう。
四コママンガを好きです。好きになっています。馴染んでおるのです。
めんどくさいなあ。
で、四コママンガには一本ごとに見出しがついておるものと、ついておらぬものがあります。ふつう読まないでしょう。たまにシュールなのがありまして、思い出したように見出しを読むのです。そう、か、と、腑に落ちるのです。どうでしょうか。四コマは見出しと合わせて一体でありましょうか。ないのもあるよ。
四コママンガの見出しを読むことはとても不自然に感じます。みなさんはどうでしょうか。まず、作者さんが見出しに凝っていらっしゃらないと思うのですね。何本もある四コマそれぞれに的確な見出しを振るというのは、彼らの専念すべき仕事ではありませんでしょう。
はじめに見出しをみても、四コマを楽しむ助けにはあまりなりません。見出しが必要になるのは、理解できない四コマを理解するため。そのとき読み返すのです。この視線の移ろいがとても不自然。戻るなら戻るでいいのですが、理解できているつもりで、実は理解できていなかった、というとき厄介であります。見出しを読んだら、実は、もっと、おもしろい、という事態がありうるのです。
そこでわたくしはいちいち見出しをチェキしよう、と思います。できません。ついつい先に進んでしまいます。あくまでわたくしの生理においてですが、四コママンガの見出しはとても不自然で、厄介なものなのです。はじめからなければいいのに。でも、それじゃ理解できない四コマが取り残されてしまう。わたくし、悲しいです。几帳面ですか。そうですか。
さて、これで、今回、わたくしが何を主張したいかということが明らかになったでしょう。なわけあるか!
随筆が好きだよ。
これがわたくしのはてぶ、「きをふしとは何か?」に用いられている「タグ」であることに気づいたひとは、もはや、とてもきをふしです。おめでとうございます。
わたくし、さいきん、ひとつのパラグラフが長いです。説明強迫症候群です。説明しなければ理解されない、あるいは、説明しなければすてきな誤読をしていただくであろうから、むしろわたくしの立つ瀬がない、と思っているからでしょう。それが余計に理解の芽を潰しているのは、このうえなく明らかです。あとわたくし、言い回しや文体が無駄無駄しいです。ウェブ的な表現というものはありましょう。しかし知ったことではありません。どうか、無駄無駄しい時間をここで費やしなさい。
そのようななかで、短いパラグラフには要注意です、きをふしさん。段落の移ろいを意味している確率が高いです。あるいは、「言いたいこと」が濃縮されておりましょう。
随筆に見出しは必要であるか、という問いは、四コママンガに見出しは必要であるか、という問いにとても似ているように感じます。とりもなおさず、随筆と四コママンガが似ているということです。この説明は難しいの。読んでいるときの「感じ」が近いという、ごく主観的な根拠だからなの。
うんこ。
見出し、あれですよ、要りません。むしろ読みにくくなさい。読んであげるよ。冒頭に「愛しい愛しいきをふし様へ」と記せば、読みにくければ読みにくいほど、読んであげるよ。おれだけの見出しをつけてやるよ。
そうだ、ブロガー(だれ?)さん、やってみたら? 「愛しい愛しい──様へ」って、いちいち書けばいいんだよ。画期的! 読まれる確率が高まること請け合い! わたくしはヤですよ! 恥ずかしいもの。しかし、そのような露骨がなくとも伝わる意図はあります。あの、気づいていらっしゃいますよね?(鎌かけ)
小見出しや箇条書きをつけることがあります。ぶっちゃたところ、広まりやすいであろうからです。記事オーラが出ておるのですね。ぷんぷんとね。ついついクリップしてしまうのです。