ハルヒ(憂鬱)を読んだ。
田村くん(第一巻。どれだけ続くのだ?)とイリヤ(全巻。アニメは藍ぽんがやっているらしい)も買ったので、読もうと思う。
書けないなあ、これ。おれ、絶対に書けないよ、これ。ほんと、こわい。なんかね、女の子の発言を鍵括弧で括ることが恐怖なんだ。わかる? 僕のなかでね、女の子っていうのは、発言しないんだよ。あるいは、ふつうでいうところの発言とは別のことなんだ。
結末を苦手なのは知っておろう。実はまんざらでもない、かもしれない。読み終えて、うーん、と思う。そうとだけ思う。「読後感」が「良い」というのは僕なりには不確かな事柄だけれど、わりと、この、うーん、というのは世間一般で言う「良い」「読後感」なのではないかな、と思う。
わりと僕は忘れっぽい。とくに物語に関しては。物語は、読んでいるそのときだけの、それ、なのだと思う。一回性。一過性。寄せては返し、打っては弾け、いま、いま、いまが続いてずっといまが続きそうで直後には何も残っていないかもしれない危なげないま感覚、というのが、僕にとっての物語。だから、覚えない。覚えらんない。
覚えるとしたら、印象、というものだろう。ひと(たとえば友人T)は、物語と印象を絡ませて記憶に落とし込む、ということをしているのだろうか。この場面でね、こうでね、それでこう感じた。この感じが、最高だった! そういう語らいは、だから苦手だけれどまあ、大いに結構だ。しかし苦手な僕の場合、物語というのが読み返(蘇)(なにそれ)らなくて、だから印象だけ。あの印象、と、この印象、の比較は、原理的に不可能だけれどね(なにそれ)。
そういうことを自覚してね、こういうことを自覚するよ。これが、おれさまの読みだ!
僕はわりと損が嫌いだ。損というのは、失うべくして失うのではなく、本来得られたはずであったものを失う、という意味合いがあろう。たとえば読むとき、見逃す、ということがある。そこで伏線が回帰するという感得ポイントを失うかもしれない。もっとじっくりと読んでいれば、とかね。違う。
一回性。一過性。これに支えられる僕にとっての物語。そこにおいては、本来、などありえない。僕がひとつの言葉を見落としたとき、そこに物語がつくられる。新たにつくられる、とか、別のものに変化する、とか、じゃ、ない! はじめて、やっと、そこに物語ができるんだ。わかるか?
わかりづらくて申し訳ない!
寄せては返し、打っては弾ける。この繰り返しという、いま。そこにおいては、伏線、などありえない。僕は、基本、忘れている。物語という背景が徐々に形作られる、という文学的魅力など、ない。本当に忘れる。まぢ僕、物語って覚えらんない。いま、いま、いま。ときにいまは幾度も項をめくるまで続き、あるいは一文前がすらいまでなくなる。つくりこまれたシナリオ? そんなもの、僕の前では無力だ。僕の着目、僕の見落とし、その瞬間、そのいま、いま、いまが、物語だ。そのときだけが物語であり、それらすべてが物語でもある。
俺語りに尽きるのは申し訳ない。けれど、いささかであれ、きをふしであるかたがいらっしゃるならば、これも無用とはいえまい。聞け。それは損でない。どのように読もうとも、それは僕の物語だ。わかっておろう。僕にとっての物語とは、それしかありえない。だから見落としは尊い。もちろん深読みも尊い。朗読も尊ければ、眺め読みもまた尊い。そこに物語がある、というより、それが物語である。読むことを恐れるな。なぜなら忘れるから、と恐れるな。覚えなければ、なんの損もない。その事態は必然だ。論理的に不細工な物言いになってきたが、再び言う。それが物語だ。
もうもうもう何言ってんだよばーか!