これでも苦肉の策だ。
さいきん、わりと*1自由に文章に書いている。文法や論理を気にせず、指のおもむくままに、です。そうやって連なった言葉たちにある種の「勢い」のようなものを感じているかたもいましょう。こうするほかありません。書けないですもん。おもむくままに言葉たちを連ねるのが、限界ぎりぎり。狙いすまして「崩し」たり「省い」たりしているわけでなく、したがって文学でなく、したがって伝えようともせず、したがってつまりは「文章に書く」ことです。
実に不思議なもので、なぜ僕がいまこのように書いているのか、書けているのか、全然わかんないです。わりと文章を書くことに対する抵抗のようなものは薄れてきました(「レポート」とか「小論文」に対してはガチガチですが)。それに加え、いままでに僕が触れてきた文章たちと混ざり合ってぽろぽろと溢れてくるのが、僕の連ねる言葉たちでありましょう。きをふしでありたいかたに、もしこう問われると困ります。どうすればきをふしに書けますか。わかんないですもん。いろいろな理由で、です。
そういえば、こういう話をしましょう。きをふしとは何か。
世間一般、こう言う。ネットに書かれたことというのは、そのひとの一部でしかなく、また偽り(ときに無自覚で、またときに自覚的に)も多分に含まれているので、そこからそのひとのなんたるかを計ることはできない。しかし、きをふし、こう思います。きをふしとは、ここなど*2に書かれたことすべてのことであり、またそれがすべてである(必要、かつ十分、ですよ)。だって、きをふしなんていませんもん。わかる? きをふしというひとは、いないよ。「そのもの」がかもしだす言葉の綾をふんだんに交えてこう言うけどさ、つまり、ここなどに書かれた言葉たちがきをふしそのものである。
「きをふしはいない」という意味合いは、おそらくはごくわずかなひとにしか正確に(きをふしの意図どおりに)伝わらないでしょう。「言葉たち」が「きをふし」「そのもの」である言い回しも、また。これが限界ぎりぎり。けっして「崩し」たり「省い」たりして、狙っているわけではない。ごくわずかなひとに「勢い」を与えることが限界。それさえも不確か。
(続くべき)

*1:さいきんよく言う。わりと。

*2:映す硝子だけでなく、たとえば他人へのメールをも含みます。