↑くだらなくてごめん(笑)

良いレビューって何かっていう話。
適当なキーワードを抜き出すだけで、かなり有効なレビューになるのではないかと思う。ああーーー! こ、こ、か! って、ね。うおお、ぶるる。とか、ね。ある種の地雷散布。作品を読むまえの作品の紹介ってさ、そういうものだと思うんだ。
うっめえ場所に地雷を敷いておく。これをレビュアーがする。
で僕、読むじゃん。地雷の場所なんてわからない。ふーん、ふーん、と読み進めていって、いきなりだぜ、踏むんですよ。きたこれ! 地雷はたいてい一個じゃないからさ、何度も意表を突かれて吹っ飛んで、ものすごいメリハリを経て物語を読み終える。はー、おもしろかった。
これが僕にとっての有効なレビューなわけです。でもまずいよね。だとしたら、良いレビューって、いったいなんだ、どうやって書けばいいんだ、ってこと、わかんないですもん。完全に、感性の勝負だよね。いかに地雷を潜ませるか、ってことは。露骨だと興ざめだし、浅いとただのあらすじになるもん。ともかくまあ、ひとかけらの言葉が爆発の火種になるのはおもしろい。
もちろんこういう観点もあるよね。「いかにわくわくさせるか」がレビューにおいて大切なのだ。作品を読むまえの作品の紹介、だから、潜在した読者に読みたいと動機づけできるかどうかはたしかに重要です。この場合、「地雷」ではまずい。だって、潜ませたらだめですもん。これわなんだ、と興味を惹きつけるような、きらきらと輝いたものでないといけない。地雷に対して、旗とでもよびましょう。なんだかぱたぱたしている。これわなんだ。
そういう折り合いが難しいと思いますのよ。もちろん、地雷と旗は矛盾するわけではない。あ……。生々しいたとえを思いついて、あの、あれですが。ほらね、おもちゃのような地雷って、あるじゃないか。あれは旗的な地雷です。うわあ……。
まあ地雷的な旗もあるわけで、って、ほんまにあるか? 考える。ううん、わからない。比喩と言葉遊びの限界? あるいは、こう深読み、また曲解してもいいかい。レビューには「地雷」と「旗」があり、および「旗的な地雷」がある。きたきたきた。二つと三つじゃ大違い! うーん……? しかし、どうもあれだ。旗的な地雷というのは、思うに、相当に難しそうだ。
っていうか、そんなことどうでもいい。つまりだ、「読まない」つもりの読者を対象にして旗を靡かせる。「読む」つもりの読者を対象にして地雷を潜ませる。レビューにはこの二通りの観点があるように思う。どちらが重要とは決められないけれど、現実的にはこういえる。読まれないと意味がない。じゃあ旗をばっさばっさやればいいのか?
……ち、ちゃう! いま自分で「どちらが重要とは決められない」って言ったじゃん! もう、まいるなあ。
あ、そうだ。わりと奔走した文章を書いているために思い出したんだけど、田村くんね。あれ、何が僕にっておもしろかったかっていうとさ、なんていうかな、ぎりぎりの線で感情移入できるところ。すっげえはらはらするアトラクション、という風に捉えられたのが良かった。読書ってのはさ、これはシンさんが言っていたと思うけれど、ひとの思考をなぞることなんだよね。まあたしかに、うん、僕が考えているわけではない。
でも考えてた。これ世間一般でいう、まあ、ただの「感情移入」なんだけどさ。たぶんそうなの。ああこれ、僕、はじめてやったかもしれない。感情移入って、これのことですか? あっは、あれだ、僕たまに言うけど、これも原理的に比較することの不可能な事柄だけどさ。えーと、説明しよう。「ぎりぎり」の「感情移入」なんだ。たとえば「思考」におけるぎりぎり。たとえば「時間」におけるぎりぎり。あれ、主にこの二つか。
げ。なんかだめだ。「説明」と打ち込むと思考がしぼみんぐ(笑) ノベルゲームの選択肢でさ、タイムリミットついてるやつあるでしょ。あれ微妙だよね。で、それのさいっこうのやつに、田村くんを読むという体験において迫られた。「言葉を滑れ! 文を跳ねろ! 行を飛べ! 項を払え!」っていうこの身体のおたけびと、「ま、ちょ、おま、まって、まって。いやん! か、考えさせて!」っていうこの情けない精神が、ぎりぎりの線でひしめき合う。この興奮が、あ、そうだ、ここに「思考におけるぎりぎり」も含まれるんだけど、この興奮が、ちょーきもちよかった。
言ったろ。これが僕の素人まるだしなところ。18歳になって、やっと、はじめて、物語に感情移入するんだよ。そんなのさ、小学校の図書室の片隅でひっそりと読書に耽る眼鏡をかけたひと見知りな文学少女がとっくに味わっている体験じゃん。いまさら何してんの、しかも何語ってんの、とか思う。でも、好きなんです! こんなに楽しんでるんだぜ! ざまみろ!
閑話休題、なーんて、するか、ばーか!