強くてニューゲーム、あるいは情報身体論

情報身体論という言葉を発想した。しばらく考えたすえ、ああ、これ、認知科学に近いな、と思う。そういう想流はkamimagiさんのわだちによろう、と思う(なんて言葉遣いだ)。
「知識を身につける」という言葉から「情報身体論」の「あたりまえ性」=「造語して概念化しなくてもいいよ性」がうかがえるけれど、どうだろう。
身体論では、身体の「延長」「拡張」という話がよくある。たとえば野外において靴は足そのものだ、っていう。どうだかね。
「もともと外部」っていう話だから、さいきんのゆとり教育時代=知識を身につけるのでなく情報を状況に応じて活用することが大切だよ時代の昨今においては、情報身体論という造語をして僕が遊ぶのもそう寂しくはなかろう(なんて言葉選びだ)。
そも、なぜ、「情報身体論」という造語を発想したかというと、データを失ったという過去に切なさを感じたからだ。0と1が無に帰したという無機な出来事がこころにしみるというのは不思議な話だ。
想像に過ぎないけれど、もし指が飛んだら。怖いのもあるけれど、なんだか悲しいような気がする。魂でもあんのか? 言ってみちゃったけど、でもこの魂という言葉はなかなかだ。MS-DOSでデータをフロッピーに保存しているとき、僕は「魂をかき集めている」ような気分だったかもしれない。
さてさてさて、身体という言葉をいしずえに、広げるよ、巻き込むよ。拡大、抽象、一般。さらにいうなら、ひとも僕の身体になるのではないだろうか。(飛躍)「僕は僕の指と死別する」。そりゃあ悲しいわな。
身体は不自由です。だから、ひとを身体に巻き込むのもそれほど勝手な思い込みではないように思います。妥当な思い込みです。
REVさんは「blog市況」という比喩でこの界隈を表した。僕なりに比喩らせてもらうと、この界隈は僕の身体である。
ふだん身体ってのは意識されない。皮肉にも(この「皮肉」は国語の授業で習いそうですね)、不調なときにはじめて身体の存在をその不自由とともに自覚する。これ、巡回の話なんだけど、つながらなかった。
これはひどい。ちょっと高校国語の勉強やりなおさないとね。