いつになったら、魔法遣いになれるのかな?

言葉はぎりぎりの線で魔法のようだ。批評に対する批評として、よく机上の空論だとか観念的だとかいう理由が用いられる。まったく、言葉の宿命ですよ。だから、実践が重要なのだ、行動が大切なのだ、そういう話がありますよ。それを言葉でどうこうするのが魔法です。しかし現実、どうにかならないから、やっぱり言葉は魔法ではないね。
惜しい。もうちょっとで、魔法、遣えそうなんだけどなあ?
言葉が魔法でない原因は、身体によろうと思う。もし世界に身体がなければ(「想定不可能だからナンセンスである」という反論に応えるすべはもちませんけれど)言葉は魔法になる。ということはだ、なんらかのやり方で身体という層を取り外せば、言葉を魔法として遣えるのではないだろうか。
意識せずに毎日おこなっている習慣を思い浮かべる。これは魔法だろうか。言葉がないから、だから「遣えない」から、魔法ではない。それでは、と、言葉を遣ったとき、身体はこわばり魔法を相殺する。そうやって、僕は魔法を「遣えない」わけ。
けれど信じる。この世界のどこかに魔法遣いがいる。言葉の意味、魔法の意味、身体の意味、遣うことの意味をある仕方で遣い替えたとき魔法が発生する。
魔法とはなんだろうか(何をいまさら)。威力をもち、かつガード不能(←ゲーム脳)な言葉である、と考えてみた。換言すれば、意味をもつ響き、ともいえる。
どうすれば言葉遣いから魔法遣いにジョブチェンジ(←ゲーム脳)できるのかなあ。「NLP」なんかは必須アビリティ(←ゲーム脳)だと思うんだ。ほかにも必須アビリティをご存知でしたら教えてください。