前提によって翻る概念/慣用と語義/身体の遣い方

本当に、ゆとり世代部のみなさんはそれぞれの思考嗜好id:torasshu)がよろしい具合に異なっている。ふつうに発生する界隈なるものとは違ったおもむきがございます。くねくねしたいのは、そのひとのことが好きだから。でも、ただくねくねしたい、そういう純粋な馴れ合いは、前提を覆す。すなわち、好きでないひとが実質として好きであるという現象。まったく新しいプロトコル。ありえないです。
誤解・曲解・勘違い・半熟男・ネットイナゴ・うんこを恐れずに言えば、言葉の意味は慣用です。遣われるほどに、言葉から語義は抜け落ちます。ですから、「ハイパー・テキスト」や「ワールド・ワイド」といった語義に異を唱えることは、いまとなっては的外れに過ぎません。ならば、と張り切って、「べつな」プロトコルまたはウェブなるものを考えるのも、あまり機能をもたないように思います。「ハイパー・テキスト2.0」や「ポスト・ワールド・ワイド」などは、もちろんその発想の価値は認めますけれど、消えた語義を追って宙に迷った接尾・接頭です。
身体の遣い方について考える。「身体の遣い方」とは、これまた、とても修辞にまみれた言い回し。「それ以外の何か」を匂わせる、あまり好きでない説法。やれ、やれ、さしあたっては、仕方あるまい。
「僕の身体は元気であるか」という問いを考える。僕の身体が元気であることを、僕の身体が元気にはたらくことで確認する。逆にいえば、僕の身体が何をもはたらかないとき、僕の身体は元気であるか否かという判断を受けることができない。したがって、僕の身体は元気であるかを「ただ」問うことに、意味はない。答えが返りえないから、そも問いでない。
飛躍・抽象・拡大解釈・妄想・閉じられたセカイ・孤独と絶望、そして死・死・死を恐れずに言えば、身体は観念において成り立たない。死・死・死。