書きかけ(03/01)

文章によって受ける影響というものを考えると、その文章を読んでいるいまと、そのあとの、二層になる。文章を書くということは、広い世界のなかから題材を選んで、題材のある一面をみて、ある一面を限られた言葉で記すことだ。結果としての言葉にはもちろん意義があって、でもその奥にある題材の意義を語り尽くすものではない。完璧な言葉を求めるのは無茶だけど、題材と言葉を挟むこの漏斗のようなブラックボックスを意識の片隅にでも転がしておけば、題材と言葉はつながっているも同然だ。ボトルネックを吹き飛ばせ。逆流する砂時計。心理の世界で物理を越える。そうつまり脳内補完ってわけです。
限られた言葉としての文章は、それ単体で価値、効果、機能をもっている。それで十分なことも多い。皮肉に言えば、それで十分ということに済ませる。それは現実だ。基準であり前提だ。これをノルマに掲げる。
それにしても、参照という概念に抜群の機能性を伴わせるハイパーリンクなる技術には感心を覚えるほかない。ある設定のタブブラウザにおいて、参照は背景に収められる。本筋に影響を与えないという点で、参照という身の程をよくわきまえている。そして参照が参照をよぶ。に限らず、言葉を軸に展開する。URLと検索で枝を生やす。根を伸ばす。幹はしっかりと据えたまま。
漏斗を遡るところ、意思と個性というフィルタが存在する。想定と操作は困難を極める。ノルマを越えたさきに立ち向かう膜。みえない向こう側を自分という他者からトレースする。雫の滴らん葉の先端から、命の源を吸い上げん根毛から、大いなる幹へたち還る。可能性として存在するみえない節を探し出す。