タグ乱れ裂き

読書録をどうやって継続するかということに工夫を練っているのですが、英単語でタグをつけてみるとすごく楽しかったです。英単語のほうが字面がかっこいいというのもありますし(としさんのはてブを思いだしました)、ATOKの辞書は便利すぎて愉快ですし、一冊に思ったよりたくさんのタグを思い浮かぶことそして貼れることに刺激を感じました。これが積み重なっていくと、まさにタグの理念がどんどんと引き出されるていくことだ。
ということから逆算して思ったのが、タグってのは狭い指向性においては本領を発揮しないなあということ。記事のクリップをすることは大概にして半径ワンクリックでありますから、わたしはいわば強い指向性をもつアンテナです。タグを抽出する段階においてすでにフィルタを経ているため、どうしても揺らぎが抑えられます。ですから意義を体感しないということですね。
または記事が記事であることに話題の安定をうかがえます。つまり短い文章の渡り歩ける領域の規制です。そのとき、いわば記事はわたしに貼られたタグなのです。対象の質量という根本的な条件からタグの活発が左右されます。
ところで、その意義からかんがみるに、蓄積された無数のタグから体系をうかがったりフィルタリングを試みたりすること、その準備であるタギングに視点を当てれば、タグを張るという言葉遣いがなんとも妙に聞こえることではありませんか。その一歩、一歩が、タグを貼ることなのです。そう考えると、そう考える僕は愉快ですね。
張り巡らされたときにはじめて機能が育ちます。ですからタグを貼ることを目的にするのは倒錯ですね。ありがちな教訓ほど忘れがちな大切はありません。意味と結果を考えればあしらうことの愚かを察します。