梨木香歩『エンジェルエンジェルエンジェル』

気になったところをひたすら列挙していったら途方がなくなったので雑感だけでもさきに書いておきます。
熱帯魚とか聖書とか、いろいろなアイテムがありつつ、それぞれの象徴的な意味を単純に決めつけることができない。異なった時代のいろいろな人物がさまざまな感情を混在させ、善悪や性格といったもののあいまい性を痛感させられる。それぞれのアイテムが意味すること、それぞれの人物同士の関わり、そのとき生じた感情の内実、隔たった時代のあいだに込められているもの、それらすべてのせめぎ合いが脳のなかにあふれかえった。
そして何より、そういった関わり合いというのが、言葉や意味といったものでつながるだけではなく、視覚、聴覚、つまりは空気というものの類似性を通して立ち上がってくることに、興奮を覚えた。たとえば、うなるモーターの音。そこ(「そこ」というのもワンシーンに限らない)に渦巻く各々の内面。ここに感じ取れる臨場感こそ小説の醍醐味であると、いまさらながらに思い改めた。
評論であれば、言葉のつながりは明確であるほうがいい。でも分析によって失われてしまう情緒だってたくさんある。小説というのは、それを最大限に尊重してえがきだす(主に)感性による構造化という試みなのではないかな、と思った。ある種のシステムだ。でも、とても重層的で、あいまいで、気まぐれなネットワークが展開される。それを、それのままに。
けれど可能だ。アナログであるがゆえに、丹念に読み解けば、じわじわと関係がむすばれていく。だからこそ、「書評」や「感想」なんていうかたちでは還元(換言?)できないかもしれない。どうだろう、この点に関しては、会話したい、と思う。それならまだ表現できそうな気がするんだ。そう、本を雑談の「話題」にするっていうのは、これほど高度なことなんだ。そんなこと、考えたこともなかったよ。
この本を読むきっかけを与えてくれたちほさん、この本を再読するきっかけを与えてくれた平野啓一郎さん、この本という物語を僕に与えてくれた梨木香歩さんに、この感謝の思いがすこしでも伝われば、これほどうれしいことはない。