スローリーディング、スローライフ

『エンジェルエンジェルエンジェル』をスロリーして思ったことがある。このような深い読みは、再読だからこそできたのであろう、ということ。スロリーはただゆっくりと読むだけでなく、構造を把握しながら読む、違和感をあたまの片隅にとどめながら読む、という工夫が求められる。たしかに、把握できなところをいちいち読み返していけば初読でもスロリーの効果は期待できる。しかし根気がいる。それを楽しめるかはかなり個人差があるのではないだろうか。すくなくとも、僕はそこまでできるほど小説を読み慣れていない。
また、こういう見方もできる。小説の楽しみ方は、本当にスロリーだけなのだろうか? 数日前に書いたことだが、石原先生の言うように、小説には「それからどうした?」を逐一追いかける「物語」としての魅力がある。石原先生は「小説は速く読んだほうがおもしろい」と(いう旨)さえ断言していた。
平野氏は速読批判のひとつとして「再読すれば理解が深まる、という速読は、そんな二度手間を前提にしているのか?」と(いうような意見を)述べたが、よく考えると、スロリーの姿勢というのは、三度手間、四度手間をもいとわないやり方ではないかな。もちろん、方向性、平野氏の言葉を借りるなら、「先」を目指すのか「奥」を目指すのか、という違いは決定的だ。けれど、読書というものに対する姿勢としては通じるところが大きいと思う。
ありきたりな結論になるけれども、スロリーにしろ速読にしろ、たったひとつの冴えたやり方は決めつけられないということ。現実として、スロリーが軽んじられる現代だからこそ、その必要性が訴えられるわけで、そちらにシフトチェンジするのはなかなか難しい。
とはいったものの、スロリーという視点をもって得たものは大きい。それは「ゆっくり読んでもいいんだよ」「焦らなくてもいいんだよ」「大切なものは大切に扱おうよ」という平野氏からのメッセージといってもいいかもしれない。立ち止まって「奥」を目指すことには勇気がいる。からっぽの洞窟だってたくさんある。それらのなかで感じる、一筋の風、一閃の輝きだけは、どうか、のがしたくはない。