思考はナマモノ手早く調理

今朝、昨日の夕刊を読んだ。長崎市長が銃殺された事件を知った。
「新聞なんて読んでるのか」「さすがきをふしさんなら当然」というコメントを想定してお答えすると、とある授業の先生が新聞を取るように指導しているので、それで今週の月曜日から取り始めました。一週間のお試し期間があるので、読売、日経、静岡新聞の三つを取っています。すべてに夕刊がつくのでポストがいつも満腹です。日経は一面に「ネットと文明」という連載があっておもしろいですね。どれを取るかはまだ考え中です。
僕はテレビをみないし(さすがきをふしさんなら当然)、新聞社サイトの巡回も久しくごぶさたなので、ちかごろの時事、社会情勢についてはからっきしです。なぜかというと、やはり興味や価値を感じないというのが根本的なところでしょう。
しかしid:qt_fbさんの「新聞読む最大の理由は上の世代の考え方とが分かりやすくなるからかな」*1という言葉になるほど納得しました。同世代のかたからそういう意見を授かるとは、なかなか刺激的なことです。ということで、すこしは興味をもって新聞に接することができそうです。いや、さすがに三誌朝夕を消化するつもりはないですが。というか積ん読です。
それで事件の話に戻ります。きょうは英語と専門の授業があったのですが、そのどちらもでこの事件が話題にあがったのです。それ今朝読んだよっておれは勝ち組だと思った、いや常識ってレベルですが。なんだか「いま」に対する風通しがすごくよくなった気がした。世間にも文脈がある。それを把握し、言葉に対するスタンスを用意しておくというのが、時事を理解することの価値なのではないかと思った。新聞ってすげえ。
ちなみに前者の授業では主に英字新聞の読解を扱っています。新聞独特の文法(広くいえばルール)にとまどいを感じていますが、そのスマートさもちょっとみえてきました。非常にシステマティックなんですね。いや、システムっていっても、仕組みを理解し読解を試みたうえで意義を成すものだから、いわば「他律」するシステムでしょうか。まあ言葉の綾なんですけど、そう考えるとわくわくします。
後者の授業に関しても、なかなか興味深い話題があげられました。ちょうど昨晩考えていたことです。それについてはおいおい書いていきます。
また、とある新書を読んでいるのですが、その内容と関わることも授業で触れられていました。その新書は机のうえにおいておいたので、なんだか本と自分がつながっている錯覚を感じて、これがほんとの積ん読だよなあとか思ってみせた。
単なる偶然なのか。シンクロニシティとかいうやつなのか。もちろんそういう運命ちっくな見方もすてきだし、まちがいだとも断言できない。「いま」に対する風通し、という話にもつながるのだが、ひとが「いま」考えられることの体系なんて高が知れている。だから、ときに「同じことを繰り返している」なんて悩んでしまうのだけれど、そんなものは思い込みなんだと一蹴したい。単なるリソースの制約によって「意識」が限られるだけで、思考の全貌は日々うごめいて豊かさを増している。「いま」には流れがある。「意識」は自己増殖的に成長したがる。だから世間はシンクロする。
「意識」とは選択と集中だ。世間を参考にしてもいいし、気まぐれに決めてみてもいい。そこから生じる一連の流動にいかにのるかということが重要なのだ。しだいにそれも廃れていくだろう。べつの「いま」に取って代わられるだろう。しかし培われた思念はみえないところで復興のチャンスをうかがっている。またそのときまで。そしてそのときのために。
要するにこういうことを言いたいのです。偶然の一致ってやつは、自分がしっかりと考えているからこそ気づくんだと。そしてその出発点を大切にしようと。その前段階についていえば、まず何らかのテーマ(はやりの言葉)をみつけることが必要です。そのための手っ取り早い手段が、たとえば新聞を読むことなのだなあと、いま思いました。
とはいっても「自由な思考」を否定するつもりはありません。むしろ、こういうことを考えるからこそ「自由な思考」とはいったいなんだろうと気になってきたほどです。そういう展望もあたまの片隅においておきたいですね。