孤独・生声・感謝

ひとのきもちを考えることは自分のきもちによるシミュの域を出ない。無数のひとによる無数の斥力によって自分の居場所が成立しているような気がする。近づけば近づくほど離れずにはいられなくなり、自覚し、何度も繰り返して、その姿こそが自分のあり方なのだと気づく。孤独を本質とするのだろうか。誇りとは寂しさなのだろうか。
なぜ個人ニュースサイトなのか。結局は、自分日記なのだ。生の声がうまれるところ。ひとの言葉がひびいたとき。共鳴は干渉にあらず、だから個性は許される。しかし全貌は巻き込んだ様子をも含み、仕方なく、ありのままをかろうじて示す。つまりリンクする。項間を読み物語を立ち上げる。たわいもない、自分のこと。
述べ尽きないのは感謝のきもち。名を掲げ、姿を示す。意味で伝えはできなくて。どうかその名をここに刻み、あなたの姿を知らしめたい。しかし無礼は百をも承知。ときにそれはひとでさえなく、指すことさえも、能わぬことも。だからこころに刻んでおこう。きもちをここにとどめておこう。残せない、失えないものを。