問題の問題は問題?

問題を発見する能力とは何か。それはどういう能力か。どうやって身につけるのか。どれだけ難しいことなのか。だれからだれに求められるのか。どういったステータスになるのか。問題とは、あるものなのか。発見するのか。解釈するのか。自覚するのか。受け入れるのか。問題がないとはどういう状況なのか。幸福なのか。窮屈なのか。ノープロブレムって日本語でなんて言うんだろう。「大丈夫」かな。大丈夫。
森博嗣がどこか*1でこう区別していた。学部生はすでに解決されている問題を考える。院生はすでに解決の方針が立っている問題を考える。新しい問題を発見すること(ができる/が求められる)のはそのあとだ。かなりうろ覚えなので、ごくおおまかにですが。
これは教育・研究の視点ですね。じゃあ、そこでの問題っていうのはなんなのか。学問は役に立てばいいってものじゃない。問題とは、単に「わかっていないこと」「十分に整理されていないこと」じゃないかな。っていうと簡単に聞こえるけど、ある意味もっとも純粋でとめどない「問題」だと思う。
森先生の意見でいくと、ほとんどの社会人は問題を発見するトレーニングを受けていない(あるいは、求められていない)? ということだろうか。たしかに、会社というのは組織である以上、だれもが最善を尽くしてはたらくことは考えがたい。仕事というのは用意された問題に取り組むことが一般的だろう*2
その「問題」というのも、教育・研究におけるそれとは意味合いが異なる。たぶん。じつに憶測なのですが、仕事において問題をみつけるとは、自分にできることを探す、ということに等しいのでは。いや、それだとまだ程度が低いか。バイトにだってできますしね、それ。となると、経営・戦略レベルにおける「問題」なんだろうか。うーん、仕事・会社における「問題」は把握しかねる。
ただ言えるのは、「問題」という言葉は「真理への探究」から「ちょっとした気配り」まで、とても幅広いニュアンスを含んでいるということ。問題とは何か。いま求められている問題発見能力とは何か。それを確かめるには慎重に文脈を紐解かなければならない。
さらにあいまいにするようで気が引けるが、こういうニュアンスも考慮したい。自我と深く絡んだ「問題」というやつ。「おれってこのままでいいんだろうか」「何を目標にするべきだろうか」という問いは苦痛を伴うことが多く、眼を逸らしがちである。だからこそ「発見」という言葉にはよくマッチする「問題」だと思う。
言ってしまえば、この問題発見とは、「考える」ことにほかならないと思う。「問題として存在するもの」に眼を向けるというよりかは、「ただあるもの」に眼を向けること。言い方がアレだけど……その「注目」という行為こそが、「問題発見」という現象に等しい、と、そう思うのです。つまり、問題とは「持続」するものであると*3
もちろん、これは個人的、情緒的な文脈における「問題」ではある。しかし、教育・研究、仕事・会社における厳格な「問題」の根本をそこにみることもできる。くだけていえば、問題発見とは「お?」という違和感、ピコーンというひらめきから始まる。ここにおいて「何が問題なのか」という問題は問題にならない。ただそこにあるものが問題としての価値をもつのだ。
では、厳格な「問題」とはなんだろう。結局のところ、原始的な「問題」が定型化された姿だろう。論文や企画書に堪える体裁に、かたちを整えたもの。それは程度的、段階的な問題だと思う。だから「問題発見」という言葉からは区別するべきだ。ここで悩んでもしょうがないので仮に「問題企画」とする。
大まかにいって、問題発見という言葉の意味するところは、「自分に向き合え」というメッセージ性に重みをおいた「問題発見」問題と、ものごとの改善に方向づけをするための「問題企画」問題のふたつに分けられる。後者は勉強や訓練によって向上させやすいので、「身につける」という文脈で指すのはこの「問題企画」能力だろう。また科学技術との親和性が高いのも注目すべき点である。
しかし僕としては、まず素朴なほうの「問題発見」を重視していきたい。みたことのないもの、みようとすらしていないものが、僕にはまだきっとたくさんあるからだ。

*1:たぶん『大学の話をしましょうか』です。

*2:このへん、学生の僕には完全な憶測でしかないのですが。

*3:なんか犀川先生の「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」「普段はそんなものは存在しない」という言葉を連想しますね。これは森博嗣すべてがFになる』の表紙に載ってます。ページは探すのが面倒なので丸投げです。なんか図らずも森博嗣でコンボができた(笑)