講義のまんなかで自習を叫ぶ

興味のある講義、ある程度知識のある講義ほど、話を聞かずに読書をするのに適している気がする。好きなんだから聞くだろって話なんだけど、関心があるからこそ、聞くに値しない部分、聞いてもつまらないところ、というが際立ってくる。それを判定する言葉に対するアンテナだって好感度だ。そもそもが興味のある分野で、それにまつわる言葉に関しても知っているから。だから安心して耳を背けることができる。
構造を把握しながら読む、というスロリーの極意にも通じる。わかってるからなおわかる。あたりまえのことかもしれないけど。
逆に、あまり好きじゃないもの、ぜんぜん知らないこと、について話を聞きながら読書にうまく気を散らすのは難しい。つまらないから、という理由で抜け落ちたところが、じつは重要なところであるかもしれない。もしこぼしたら、それに気づくきっかけすらない。いま何をやってるか、これから何をやるか、というのも把握しきれない。だから気分的な読書タイムがあいまいにしか割り切れない。結果、読めない。しかも講義まで理解できない。
というわけで、サボるつもりのない授業ほどサボりやすく、サボりたい授業ほどその代償が大きいということがわかった。いや、無理に好きになることはない。全体像をちょっと把握できればそれでいいんだ。そのことに知識は本質的でない。外部に対するモニタリングによってみちびかれるものだ。
全力でサボるためには、全力でその講義に立ち向かわなければならない。と言うとさすがに大げさか。とにかく、アンテナを張っておこう。好きなもの、おもしろいもの、大切なもの、それらを絡め取るための準備をしてからだ。中途半端はいくない。
関係ないけど、やっぱり考え事というのは現在的なインプットに左右される。話を聞きながら、あ、それさっき読んどったあれやん、という連想はたびたび浮かんでくる。心理学の実験でも同じカテゴリの言葉は連想が素早いっていうのあったよね。スクリプトっていうんだっけ。知識は海のように広くても、一気にすくいあげることはできないわけ。
だから、すこし関連性のある本を読んでサボる、というのはちょっとおもしろいかもしれない。実際、いま先生がしゃべってることより高度な内容がこの本には書いてあるはず、という状況もまれにある。まれに。そういうときは安心と誇りをもってサボりに励むことができる。
ひろーくみれば、まったく関係のないことを同時に進めるのはやっぱりへたなやり方みたい。もちろん、ちゃんと話に集中するのが一番なんだけど。結局、もっとも精度のいいサボりはその状況でないと実現できないのだし。現在地に対するモニタリングを意識していきたい。まあ、こんなのはいまだけしか通用しないまねなのかもしれないけど。