大学

情報系の学科に所属しているのでプログラミング関係の授業があります。場合にもよるのでしょうが、いまのことろ、この手の授業は全員が理解することを目標に進められています。そのための工夫が練られていることは確かですが、その助けが必要ないレベルのひとにとっては実りがすくないのも事実です。これでよいのか、とありがちな問題意識が芽生えますね。
まず考えなければならないのは、そもそも大学の授業に何が求められているのかということ。もっといえば、なんのために大学があるのか。とある先生の意見を参考にすれば、一昔前、大学は金持ちの道楽だったそうだ。サークルとかで遊ぶとこ。しかし近年、大学は企業からより実践的な能力を期待されている。その先生は「従来のようなのほほんとした学生は危ない」と(いうようなこと)すらおっしゃっていた。
とくに工学系でその流れが顕著だと。国がその手の研究を金出して援助しているらしい。そういえば大学が民間から助成金をもらったこと(?)がニュースになってたし、ついこのまえCOEという文科省からの研究費も交付されたようだ*1。産学協同という視点がより重みをましているのでしょうね。
ここでちょっと個人的な感想を思い起こしていきたい。さいきん、大学の授業のいくつかはあまり価値がないことに気づいた。価値がない、というと身も蓋もないが、たとえば、自分に必要ない、どうしようもなくつまらない、個人的に興味がない、教え方がへた、レベルが低い、難しすぎる、という場合、もっと大切なことにちからを注いだほうが賢い。
何をいまさら、と思われるかもしれない。一年生のころは、授業にでなければいけない……、授業に出たくない……、難しい……、つまらない……と、みずからの感情に振り回されているだけだった。ちょっとした生活や心境や時間割の変化から、いまは「まあ出ればいいじゃん」くらいのきもちで授業に臨むことができる。その眼で視て、改めて、思う。いくつかの授業には出る価値がない。僕はこの授業に出る必要がないと、確信できる。
とはいえ、それは堕落フラグの香りが漂うので、いまはまだ慎もうと思います。とりあえず出れるものにはすべて出ようと思う。でも、感情でなく、ちゃんと落ち着いて考えて、授業に出たくないという判断をできる、いまの自分というものに、ちょっとした誇りを感じている。恥ずかしいことを言っているかもしれない、とは推測できるけど、実感としては、ない(笑)
話を逸らそうと思って逸らしたんだけど、どうやって戻せばいいんだ? 調子に乗るとこうなるという好例。うそです。
授業の程度が低ければ、悪い授業なのか。そうともいえない。全体のレベルを底上げする、という前提に立てば、最善の策だといえる。また、デキルやつをさらに伸ばす、という前提はあまり現実的ではないと思う。落ちこぼれを切り捨てる、というのは倫理的に問題だし*2、そもそもデキルやつは授業がなくても伸びるはず。だから、「授業」という枠組みで学生にアプローチするには限界がみえている。
本当にそうか。見聞きしたところだと、なかには全体を対象にした(つまり「必修」)授もので、かつ大変そうな授業というのもある。これって、素直に偉いと思う。学生も先生もがんばらないと成り立たない授業だから。それをよろこぶのはマゾいし、僕がやりたいとは思わない(笑)けど、なんか、偉いなあ。でも全部の授業をそうするのも難しい。辞めるぞ。
つまり、大学の授業に不満をもらすのは無意味だ。授業に対する不満とは、授業のターゲットに含まれていない自分、に対する不満なわけだから。がんばって勉強したり、耳栓して本を読んだり、うとうとして春をたしなんだり、するほかにない。ちかごろは冷えますが。というか、出なけりゃいい。いや、僕は出ますって言っておいて説得力ないですけど。
賢明なきをふし読み(謎)のみなさんには断るまでもないとは思いますが、何も大学の存在意義がないとは言っていません。それに、以上のことは僕の知る限りをカギ括弧した「授業」に過ぎないわけで、大学にはもっといろいろな勉強の仕方が用意、っていうと言い方が変だけど、まああります。そういうのに触れるとまた考えも変わるに違いありません。
そして何より、この状況そのものにかけがえがないのです。以上のように授業を否定してしまうと、授業料なんて空きコマに払ってると考えるしか納得の仕様がない(笑) 僕は奨学金をもらっています。よく考えると「借金はよくない」という常識に反するとんでもない行為です。親から金をもらっています。このうえない親不孝です。なんでそんな非常識が許されているのか。そのことを考えることが、大学生としての生き方をみつめることだと思います。
では、価値がないと認めた授業をくぐり抜けて何ができるか。むしろ着目すべきはここですね。
自分で勉強することです。ああ、当たり前すぎてなんで僕が書いているのかわからないほどですね。いえ、調子に乗りました。でもそう答えるほかない。そして、これは効率的なやり方でもある。
自分で考えるにはどうすればいいか。簡単に答えのみつかる問いではないが、これだけは言える。「わかっていること」でしか、考えることはできないのだ。逆説的かもしれないが、だからこそ、考えることは簡単なのだ。「知らないこと」を「理解する努力」が必要ない。考えることに没頭すればするほど、世界が自分に満たされていく。そのうえで生じる発想はもはや必然。う、また調子に乗ったか。
もちろん、「知らないこと」が原因で実現できないこともたくさんある。でも、「わかっていること」で囲い込んださきで浮き彫りになる無知は、対処をするのも容易だ。結果として「理解する努力」は和らぐことになる。そして何より楽しい。だから方法として優れている。シンプル。

*1:うちの大学は東大の3%くらいの金額だったw

*2:これについては反論が予想されるけど、ここではこう言い切りたい